大洗磯前神社_(中津川市)とは? わかりやすく解説

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大洗磯前神社 (中津川市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/11 11:19 UTC 版)

大洗磯前神社
所在地 岐阜県中津川市上野433
位置 北緯35度35分38秒 東経137度29分36.3秒 / 北緯35.59389度 東経137.493417度 / 35.59389; 137.493417 (663oe大洗磯前神社)
主祭神 大己貴命少彦名命
創建 明治11年(1878年)
例祭 4月第1日曜日
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大洗磯前神社(おおあらいいそざきじんじゃ)は、岐阜県中津川市上野に鎮座する神社

祭神

主祭神

摂末社祭神

歴史

藥王山 東光寺

明治初年まで大洗磯前神社の境内地には薬師如来を本尊とする藥王山 東光寺が存在した。

東光寺は、薬師堂の位置より少し左下方にあったとされるが位置を特定することのできる遺構は残っていないが、周辺には五輪塔が数基とその残欠を確認することができ、周辺から採集された陶磁器類は中世のものである。

室町時代には、上野本郷に居住していた吉田氏の加護により大寺であったとされる。

明治2年(1869年)8月、苗木藩の廃仏毀釈によって本堂は打ち毀されたが、薬師如来は村人の手で秘匿された。

大洗磯前神社

数年後、薬師堂建立の声が盛んになり苦肉の策として、神社を建てその中へ薬師如来を祀ろうと考え、当区受持祠官の苗木村の水野忠鼎へ薬師神社建立の申請をするも不許可であった。

明治9年(1876年)に、再度嘆願したところ、薬の神である少彦名命を祀る茨城県東茨城郡大洗磯前神社の分社としてなら可との沙汰があり、

明治11年(1878年)に大洗磯前神社が建立された。別名、薬師神社とも呼ばれている。

境内には、高さ50m、樹齢1000年を超える大杉が聳えている。また付近には宝篋印塔や五輪塔が散乱している。

「大洗磯前神社創立前後明細記」には以下の内容が記されている。

當村 藥師之儀 従來崇敬仕候處 明治二 己巳年 舊苗木藩 管轄之砌 一般寺院を廃し 相成候に付 右藥師堂の儀 取畳中候然處 其後 村内協議之上 右敷地へ不願して 一社を設け 稲荷神社と唱え 六七年の間 崇敬致居候處 追々 隣村而巳ならず 諸所遠隔より 數多参詣有之候に付 願書相認 尚又 村内協議を尽し決定の上 當區受持祠官 苗木村 水野忠鼎殿え 右の趣 縣に上申仕 本縣に出願 何卒 薬師神社と改名 願度旨 申上候處 水野君 仰には 其意 村内一統 相成候はば 至急願書相認め 速に進達 可致旨 被仰聞候に付 願書相認 本縣に願書出願候處 御採用不相成 殊の外 細密に取調可差上旨 被仰聞候に付 帰村之上 右藥師佛 古來より 謂書等 村内 穿鑿仕候處 古來より 判然成書物 有之依て 是に基づき取調 並 境内判別絵図面等 願書に相添 嘆願致候處 不調之廉 有之尚又 却下相成候に付 又候 明治九年 願書認換 再三再五六度 嘆願仕候處 神社と改名之儀 御聞不相成 止を得ざる次第 然る處官より 被仰聞候に付 従来之通り 藥師堂再建なれば 聞届 御指令致呉候 該節は 實地御改正の際 不都合出来候哉 難量に付 村内深く心配の折柄 何共御指令 書相願候 半では一大事と心配仕 直に願書 手直し進達候 處速に 御指令相成候に付 村内一同 安心仕 壱年餘 其儘崇敬 罷在候處 然るに 當區受持祠官 水野忠鼎君より 被聞候には 右藥師菩薩之儀は 常陸國鹿嶋郡[1]磯浜村鎮座 少彦名神社 則該御分社を願度旨 願書相認め 郵贈仕候はば 速に御聞届に相成候趣 御演舌 有之依て 村内協議之上 尚又 明治十年十月 右 同社御分社 申請候處 同年十二月十八日 茨城縣廳 伺済の上 御分社承諾書 該書 該縣 御指令 書写をも 相添 被差越候条依りて 明治十一年二月 願書相認め 右書面悉く 皆相添 本縣え出願候處 永続法方等 見込書相添 可差出間被仰渡 夫のみならず 綿密に取調 差出候様 被仰聞候に付 御差圖之通 字番号並 境内反別 其他取調 同年三月 願書相認 進達致處 本縣より 内務省迄 伺済之上 本縣に於いて御指令相成依て 大洗磯前神社と 改称致し候 最も御鎮座の儀は 明治十一年 一月三十日に 相済申候 同年舊八月十五日 改祭典

 

上野薬師堂

明治11年(1878年)に、大洗磯前神社が建立されると、附属して薬師堂が再建された。

薬師如来像はヒノキの寄木造で、南北朝時代末期の北朝の年号が記されていたとされるが、近年解体修理した後の現在は確認することができない。

昭和40年(1965年)9月7日に岐阜県の指定有形文化財となった。

かつては脇侍として月光・日光菩薩を持っていたと考えられるが、現在は独尊となっている。

木像は上部漆と金箔が重ねられていたが、腐食が進んでいる。

母乳の出ない人は、さらしに綿を入れ乳房にしたり、耳の悪い人は、コウゾの木でキリの形を作り、それを供えて祈ると、乳がよく出るようになるし、耳の病は早く治るようになると伝えられている。

千手観音

大正12年(1923年)に発生した関東大震災の惨状に心を痛めた恵那郡中津町の者が、「恵那新四国八十八ヶ所」を発願し、各地に札所を定めた際に、上野薬師堂脇の、千手観音が八十二番札所と定められた。

文化財

岐阜県指定有形文化財

  • 薬師如来像

岐阜県指定天然記念物

  • 磯前神社のスギ

中津川市指定天然記念物

  • 磯前神社のイチョウ

参考文献

  • 『坂下町史』 十 維新前後 9 廃仏毀釈と坂下 大洗磯前神社創立前後明細記 p331~p332 坂下町史編纂委員会 編 1963年   

関連リンク

脚注

  1. ^ 正しくは東茨城郡



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