大徳11年の政変とカイシャンの即位とは? わかりやすく解説

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大徳11年の政変とカイシャンの即位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 14:21 UTC 版)

ナンギャダイ」の記事における「大徳11年の政変とカイシャンの即位」の解説

1300年代末、テムル病態悪化する中で次代カアン位が注目されていたが、本来帝位最も近いはずのカイシャン/アユルバルワダ兄弟中央から左遷され皇后ブルガン安西アナンダ帝位につける計画進めていた。これを察知したアユルバルワダとその母ダギ中央戻っていたナンギャダイブリルギテイ、トイン・ブカらにブルガン勢力へのクーデター協力要請しナンギャダイらはこれに応えて一行大都目指した。大都宮中ではチャガタイ家王族トレクーデターへの協力表明しており、ナンギャダイ先行してトレ合流し計画練ったうえでアユルバルワダの下に戻ったアユルバルワダ未だクーデター決行に逮巡していたが、ナンギャダイ一刻も早く決行するょう説得し遂にクーデター成功した。 しかし、その後カイシャンモンゴリア駐屯軍率いて南下してきたため、最終的に帝位カイシャンのものとなり、クーデター時の功績によりナンギャダイ七宝束帯・鞍轡・衣甲・弓矢黄金五十両などを与えられ、蘄県万戸ダルガチに、次いで同知枢密院事に任じられた。カイシャン1311年(至大4年)に亡くなりアユルバルワダ即位する(ブヤント・カアン)と、ナンギャダイ河南に家を有していたことから特に河南江北行省平章政事に任ぜられ、この地位のままナンギャダイ亡くなったアユルバルワダは後にクーデター時のことを振り返って我と太后(ダギ)は成功疑っていたが、ナンギャダイ言葉覚悟定め決行することができた。かつて周の文王には太公望という優れた臣下がいたというが、ナンギャダイはまさに予にとっての太公望である」と語ったという。ナンギャダイ死後、その地位息子ジャファル(教化)、孫のトゴン(脱堅)が継承した

※この「大徳11年の政変とカイシャンの即位」の解説は、「ナンギャダイ」の解説の一部です。
「大徳11年の政変とカイシャンの即位」を含む「ナンギャダイ」の記事については、「ナンギャダイ」の概要を参照ください。

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