大徳11年の政変とカイシャンの即位
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「ナンギャダイ」の記事における「大徳11年の政変とカイシャンの即位」の解説
1300年代末、テムルの病態が悪化する中で次代のカアン位が注目されていたが、本来帝位に最も近いはずのカイシャン/アユルバルワダ兄弟は中央から左遷され、皇后ブルガンは安西王アナンダを帝位につける計画を進めていた。これを察知したアユルバルワダとその母ダギは中央に戻っていたナンギャダイ、ブリルギテイ、トイン・ブカらにブルガン勢力へのクーデターの協力を要請し、ナンギャダイらはこれに応えて一行は大都を目指した。大都の宮中ではチャガタイ家の王族トレがクーデターへの協力を表明しており、ナンギャダイは先行してトレと合流し、計画を練ったうえでアユルバルワダの下に戻った。アユルバルワダは未だクーデターの決行に逮巡していたが、ナンギャダイが一刻も早く決行するょう説得し、遂にクーデターは成功した。 しかし、その後カイシャンがモンゴリア駐屯軍を率いて南下してきたため、最終的に帝位はカイシャンのものとなり、クーデター時の功績によりナンギャダイは七宝束帯・鞍轡・衣甲・弓矢・黄金五十両などを与えられ、蘄県万戸府ダルガチに、次いで同知枢密院事に任じられた。カイシャンが1311年(至大4年)に亡くなりアユルバルワダが即位する(ブヤント・カアン)と、ナンギャダイは河南に家を有していたことから特に河南江北行省平章政事に任ぜられ、この地位のままナンギャダイは亡くなった。アユルバルワダは後にクーデターの時のことを振り返って「我と太后(ダギ)は成功を疑っていたが、ナンギャダイの言葉で覚悟を定め決行することができた。かつて周の文王には太公望という優れた臣下がいたというが、ナンギャダイはまさに予にとっての太公望である」と語ったという。ナンギャダイの死後、その地位は息子のジャファル(教化)、孫のトゴン(脱堅)が継承した。
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