大場勲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/19 21:11 UTC 版)
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基本情報 | ||||
生誕 | 1941年3月10日 | |||
身長 | 170 cm (5 ft 7 in) | |||
体重 | 68 kg (150 lb) | |||
国籍 | ![]() |
大場 勲(おおば いさお、1941年3月10日 - )は日本のプロゴルファー。
来歴
1973年は全日空札幌オープンで島田幸作・青木功と並んでの10位タイ[1]に入り、日本のプロ競技で初めて行われたチャリティートーナメント「ソニーチャリティークラシック」[2]では初日に11番でホールインワンを達成[3]。2日目には吉川一雄と共に浮上し、初日の1番でホールインワンを達成していた杉本英世[3]、コースレコード64で首位[3]スタートながら2オーバーを叩いた森憲二、初日3位タイの内田久寿雄[3]と並んでの7位タイに着ける[4]。最終日は32.5度の炎天下で苦しいゴルフとなったが、アメリカPGAツアーの強豪であるレイモンド・フロイド、ミラー・バーバー[5]や青木・杉原輝雄らを抑え[2]、6アンダー66で前日の12位から一気に田中文雄の2位[6]まで浮上[7]。
その後の第1回BVD杯フジサンケイトーナメントではグラハム・マーシュ(オーストラリア)と共に猛暑の初日にコースレコード[8]タイの68をマークし、2日目には64で山本善隆と並んでの3位タイに着けた[9]。3日目には無難にまとめて橘田規・竹安孝博・マーシュと並んでの2位タイ[10]に着け、最終日には島田と並んでの8位タイ[11]に入った。
関西プロでは川上実と並んでの6位タイ[12]に入り、ゴルフダイジェストトーナメントでは同年2度目のホールインワン[13]を達成し、ダンロップフェニックストーナメントの前身に当たる「全日空フェニックストーナメント」[14]では村上隆・竹安と並んでの6位タイ[15]に入った。
1974年のスポーツ振興インターナショナルでは2日目に郭吉雄(中華民国)・宮本省三・今井昌雪と並んでの3位タイ[16]に着け、最終日には関水利晃と並んでの4位タイ[17]に入った。
1974年の静岡オープンでは謝永郁(中華民国)・橘田と並んでの6位タイ[18]、1975年のスポーツ振興インターナショナルでは島田・山本善と並んでの7位タイ[19]に入った。
1975年の中部オープンでは3日目に鈴村久・陳健振(中華民国)と並んでの3位タイ[20]に浮上し、最終日には69をマークして首位の野口英雄に並ぶが、プレーオフの末に2位[21] [22]に終わる。
1976年には中部オープンでは鈴村照男と共に陳健・鈴木豊と並んでの3位タイ[23]、関西プロでは初日に67、最終日には64をマークして能田征二と並んでの3位タイ[24]に入り、日本プロでは初日を村上隆・新井規矩雄・金本章生・村上渉・陳健・原克己・大嶋正春・寺本一郎・吉武恵治・宮本省・榎本七郎・菊地勝司・渡辺由己と共に2アンダー68の8位タイ[25]でスタートした。
1976年のダンロップフェニックスでは2日目の3番で4番アイアンをうまく手前に落とし転がって入り、試合では3年ぶり3度目のホールインワンを達成[13]。3番ホールは通算13回とフェニックスカントリークラブの4つあるパー3ホールの中で最も多くのホールインワンが記録されているが、初めてのホールインワンを記録したのが大場であった[13]。
1978年には札幌とうきゅうオープンで3日目に山田健一・中村通と並んでの5位タイ[26]に着け、中部オープンでは井上幸一・鈴村久・石井秀夫・内田繁・石井裕士・野口に次ぐと同時に豊田明夫と並んでの10位タイ[27]に入り、第1回富山県オープンで優勝[28]。
1979年には阿蘇ナショナルパークオープンで野口茂と並んでの4位タイ[29]、関西プロで入江勉・出口栄太郎と共に中村通・宮本康弘・内田・鈴木規夫・山本・井上・吉川・石井に次ぐ9位タイ[30]に入った。
主な優勝
- 1978年 - 富山県オープン
脚注
- ^ 朝日新聞縮刷版p303 昭和48年7月9日朝刊19面「尾崎、ジャンボな逆転 最終日 12位から一気に優勝 全日空札幌ゴルフ」
- ^ a b “2003選手紹介”. 2023年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年3月11日閲覧。
- ^ a b c d 朝日新聞縮刷版p453 昭和48年7月13日朝刊19面「杉本・大場ホールインワン エアロ慈善ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p489 昭和48年7月14日朝刊19面「木本、レガスピが首位に エアロ慈善ゴルフ」
- ^ “IGIA会長 田中文雄”. 2023年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月8日閲覧。
- ^ McCormack, Mark H. (1974). The World of Professional Golf 1974. Collins. pp. 323, 544. ISBN 0002119544
- ^ 朝日新聞縮刷版p557 昭和48年7月16日朝刊19面「花開いた日米の新鋭 田中、1打差の逃げ切り」
- ^ 朝日新聞縮刷版p338 昭和48年8月10日朝刊18面「陳健振、アルバトロス BVD杯ゴルフ 川田が初日リード」
- ^ 朝日新聞縮刷版p374 昭和48年8月11日朝刊18面「橘田がトップ 尾崎は27位 BVD杯ゴルフ第2日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p408 昭和48年8月12日朝刊18面「首位争い激烈 中村通が浮上 BVD杯ゴルフ第3日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p440 昭和48年8月13日朝刊18面「マーシュ優勝さらう BVD杯ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p308 昭和48年9月9日朝刊18面「関西プロは島田が優勝」
- ^ a b c “ダンロップフェニックストーナメント|DUNLOP PHOENIX TOURNAMENT”. www.dpt.gr.jp. 2023年8月30日閲覧。
- ^ 毎日放送40年史編纂室(編集)『毎日放送の40年』毎日放送、1991年、258頁。
- ^ 朝日新聞縮刷版p318 昭和48年12月10日朝刊14面「宮本プロ入り初優勝 1打差 2位に吉川・尾崎 フェニックス・ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p15 昭和49年6月1日朝刊15面「ダンクが首位に スポーツ振興国際ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p70 昭和49年6月3日朝刊14面「宮本省、逃げ切る 抜群のうまさで久々の優勝 スポーツ振興ゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p801 昭和49年11月25日朝刊19面
- ^ 朝日新聞縮刷版p867 昭和50年7月28日朝刊13面「宮本康が逃げ切る インターナショナル・オープンゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p597 昭和50年7月19日朝刊17面
- ^ 朝日新聞縮刷版p627 昭和50年7月20日朝刊15面
- ^ “中部オープンゴルフ選手権競技 1975 - 日本ゴルフツアー機構 - The Official Site”. www.jgto.org. 2023年8月30日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p576 昭和51年7月18日朝刊16面
- ^ 朝日新聞縮刷版p41 昭和51年8月2日朝刊17面「前田が逆転優勝 関西プロゴルフ」
- ^ 朝日新聞縮刷版p783 昭和51年9月24日夕刊9面「宮本康・金井がリード 日本プロゴルフ 尾崎、三位につける」
- ^ 毎日新聞縮刷版p544 昭和53年6月18日朝刊18面「青木、独走の10アンダー 札幌とうきゅうオープンゴルフ第3日」
- ^ 朝日新聞縮刷版p538 昭和53年7月16日朝刊18面「井上が初栄冠 中部オープン」
- ^ “クラブの歴史”. www.kurehacc.jp. 2023年8月30日閲覧。
- ^ 朝日新聞縮刷版p310 昭和54年4月9日朝刊12面
- ^ 朝日新聞縮刷版p50 昭和54年7月2日朝刊18面「中村通逃げ切る 関西プロゴルフ」
外部リンク
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