外にも出よ触るるばかりに春の月
作 者 |
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季 語 |
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季 節 |
春 |
出 典 |
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前 書 |
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評 言 |
暖かな春の訪れとともに、毎年思い出す句である。特に春の宵、山の上にぽっかりと浮かぶ大きな春の月は、なんともいえない懐かしさを伴って私の胸に迫る。近所の友達と日暮れまで時の経つのも忘れて遊んだ春の日、走りまわった小川の小道、続く畦道、蓮華畑、今でもあのときの時間はそっくり私の胸にしまわれている。 汀女の句にはわが子のことを句にしたものが多い。主婦であり良き母親であった彼女は、この日も早めの夕餉を子供たちと囲み、一日の片付けも済ませホッとして外に出てみたのであろう。見ると手の届きそうなところに大きな春の月が出ている。しばらく我を忘れて見入ってしまった。ふと気がつき、家の中でにぎやかに遊びまわっている子供たちに声をかける。「さあ、出ていらっしゃい。大きなお月様。手で触れそうですよ」母の声に子供たちは歓声と共に飛び出してくる。大きな月と出会った感動。言葉もなく月を見上げている母と子。一番小さい子は母にだっこをせがんで月に手を伸ばしているのかもしれない。幸せな母子の姿が目に浮かぶ。懐かしい日本がそこにはあり、日本の家庭の原風景といってもいいような句である。日本人の心のふるさとでもある。 振り返って現在の日本の家庭を思う。これからの子供たちが大人になった時、どのような風景がその心の中にしまいこまれているのだろうか。社会のひずみの中で、わが子を衰弱死させる若い母親、幼児虐待のニュース等が茶の間に連日のように流れてくる。それを考えると、ふと背筋が寒くなるような思いがよぎる。いつの間にこのような状況になってしまったのだろうか。わが子を思う母親の心情がそんなに簡単に変わるはずはない。わが子を抱きしめた時のあの温もりを忘れてしまう母親などいないはずだ。 汀女にはまだ他に「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」がある。懐かしい母の姿がここにもある。この日本の母の姿が現在の若い母親たちにも脈々と流れていると私は信じたい。 |
評 者 |
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備 考 |
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