塞について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 07:56 UTC 版)
塞が登場したのは中国史料の『漢書』西域伝においてであり、それまでの『史記』には一切登場しない。以下は『漢書』西域伝の罽賓国の条と烏孫国の条である。 罽賓国の条「昔匈奴は大月氏を破り、大月氏は西の大夏で君主となり、塞王は南の罽賓で君主となった。塞種は分散し、数国となった。疏勒より西北では、休循,捐毒の属(やから)となり、皆故に塞種なり。」 烏孫国の条「本(もと)は塞の地なり、大月氏は西の塞王を破って敗走させ、塞王は南の縣度(けんど)を越え、大月氏はその地に住み着いた。後に烏孫の昆莫が大月氏を撃破すると、大月氏は西に移って大夏を臣従させ、烏孫の昆莫はこれに住み着き、故に烏孫の民には塞種,大月氏種がいると云う。」 つまり、イシク湖周辺の地域(現在のキルギス)にいた塞民族は、匈奴(老上単于)の攻撃によって逃れてきた大月氏により追い出され、縣度(パミール高原,ヒンドゥークシュ山脈)を越えてガンダーラ地方に罽賓国を建てた。また、分かれてパミール山中に休循国,捐毒国を建てた者や、残って烏孫国に属した者もあったという。 また、発音上この塞民族とサカ族を同一視する「塞=サカ説」が、E.J.Rapson『The Scythian and Parthian Invaders』(1922年)、W.W.Tarn『The Greeks in Bactria and India』(1938年)、A.K.Narain『The Indo-Greeks』(1962年)、白鳥庫吉『塞民族考』などによって議論されており、広く通説となっている。しかし、小谷仲男が『ガンダーラ美術とクシャン王朝』(1996年)において塞民族は存在しなかったと主張したように、一部には否定的な者もいる。 顔師古注が塞と釈迦を結びつけていることについては、釈迦族を参照。
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