堤三樹男
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堤 三樹男 | |
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生誕 | 1886年12月4日![]() |
死没 | 1975年1月12日(88歳没) |
所属組織 | ![]() |
軍歴 | 1910年 - 1945年 |
最終階級 | ![]() |
堤 三樹男(つつみ みきお、1886年(明治19年)12月4日[1] - 1975年(昭和50年)1月12日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
1886年(明治19年)に宮崎県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期卒業[1]。1936年(昭和11年)に歩兵第77連隊国境守備隊長に就任し[2]、1937年(昭和12年)8月陸軍歩兵大佐に進級[2]。9月には留守第10師団司令部附[2]、1938年(昭和13年)に歩兵第39連隊補充隊長を経て[2]、1939年(昭和14年)に歩兵第63連隊長に就任した[2]。
1941年(昭和16年)に陸軍少将に進級し[2]、独立混成第11旅団長に就任[1]。日中戦争に出動し[1]、揚子江右岸下流の警備に当たり、江南作戦、蘇北作戦、広徳作戦を連戦[1]。1942年(昭和17年)に歩兵第55旅団長に転じ[1]、1944年(昭和19年)3月に留守第51師団兵務部長[1]、4月に第81師団兵務部長[1]、6月19日に第31軍司令部附[3]、6月26日に参謀本部附を歴任[4]。6月27日に陸軍中将に進級し[2]。1944年(昭和19年)7月1日、宮城、鳳凰の間にて親補式が行われ、第68師団長に補された[1][5]。終戦時は衡陽にあった[1]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[6]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l 福川 2001, 479頁.
- ^ a b c d e f g 外山 1981, 280頁.
- ^ 「第116号 昭和19年6月20日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120911900
- ^ 「第121号 昭和19年6月27日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120912400
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第九』東京書籍、2016年9月29日、379頁。ISBN 978-4-487-74409-1。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
参考文献
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 ISBN 4829500026。
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