城、城兵とその館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 03:23 UTC 版)
「クヴァーケンブリュック」の記事における「城、城兵とその館」の解説
クヴァーケンブリュックの城に関する最初の文献記録は1279年のもの(ただしその写本)であり、司教区の創設と同時か、それ以前に建設された。この城砦の取り壊しは15世紀末から16世紀初頭に行われた。現在その遺構は見られず、1970年に新しい建物が周囲の城兵の館を消し去った。マリエン教会のすぐ裏手にある隆起は明らかに識別できる。遺されているのは、3棟のかつての城兵の館である。これらは、防衛の脆弱な場所を防衛する役割を負って戦略的に建てられている。 防衛の必要性がなくなると、城兵の重要性は失われ、19世紀の初めまでその名前だけが残った。市民階級の興隆によりクヴァーケンブリュックは大きなマルクト広場を有する市民都市として発展した。マルクト広場はかつて城兵の馬上試合場であった場所だが、商業の中心地となった。手工業者連合会が成立し、周辺地域と取引関係が締結された。クヴァーケンブリュックは内陸地方と海岸地方との流通交易の中心地となった。初めは城兵のみが司法権を行使したが、1469年以降は、市民階級も議会でこれを代行するようになった。城兵と市はこの頃から独自の印章を使用するようになった。1492年からは4人の城兵と4人の市民が議会を形成した。この議会は16世紀末から6人の市民だけで形成されるようになった。
※この「城、城兵とその館」の解説は、「クヴァーケンブリュック」の解説の一部です。
「城、城兵とその館」を含む「クヴァーケンブリュック」の記事については、「クヴァーケンブリュック」の概要を参照ください。
- 城、城兵とその館のページへのリンク