埋蔵金騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 13:18 UTC 版)
1963年(昭和38年)、中央区新川の日清製油(現:日清Oillio)本社ビルの建設現場から大量の小判が発見された。当時の時価で6000万円と言われた。そこは鹿嶋家の屋敷跡であり、写真の現像液を入れるガラス容器3本に小判が入っていたため、清兵衛の埋蔵金と騒がれた。鹿嶋家は終戦の年に空襲で焼き出されていたが、大宮に住んでいた10代目に当たる当主が所有権の名乗りを上げた。清兵衛の実弟・清三郎が兄の7回忌の記念にまとめた冊子『亡兄を追憶して』に「古金の発見」という項があり、それによると、「幕末から明治に変わるころ、幕府の人間が絶えず鹿島家に御用金の取り立てに来たが、断ると嫌がらせをされるため、小判を床下に埋めた。そのまま忘れていたのを清三郎が13歳のときに一度掘り起こし、家族で小判を数えた」といった内容の記述であった。これによって、発見された埋蔵金は鹿嶋家の子孫に返還された。[要出典]
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