土星型原子モデルの提唱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:14 UTC 版)
「長岡半太郎」の記事における「土星型原子モデルの提唱」の解説
1900年代初頭、原子が不可分の粒子ではなく、正電荷に帯電する粒子と負電荷に帯電する粒子の集まりであるらしいということが判明していた。当時著名な物理学者であった英国のJ・J・トムソンは、1904年に、正に帯電した球の内部を負電荷の粒子が自由に運動しているという、ブドウパンのような原子モデルを提唱した。それに対して長岡は、同じく1904年(明治37年)に、中央に正電荷を帯びた原子核があり、その周りを負電荷を帯びた電子がリング状に回っている土星型の原子モデルを発表した。原子核の周りを電子が回っている原子模型は、長岡より2年前にジャン・ペランも提唱していたが定性的なものであり、長岡の論文はマクスウェルの土星の環の安定性についての研究に影響を受けた、より精巧なものだった。 長岡のモデルにおいては、中心に重くて電荷の大きい核があり、その周りに数千~数万個の電子が回っていると仮定をすることで、原子はある程度の安定性を得られたが、最終的には電子が電磁波を放射してエネルギーを失って核と合体してしまう懸念点があり、当初はあまり注目されなかった。また原子のスペクトル線を説明できるとしたが、実験とは上手く合わなかった。しかし1911年、アーネスト・ラザフォードがα線の散乱実験を行い、原子核を発見(→ラザフォード散乱)。この実験結果に基づいてラザフォードの原子模型を発表した。これは原子核があり、その周りを電子が回っているという点は、長岡の土星模型と似たものであった。 原子核の周りを回る電子の問題については、ニールス・ボーアによる1913年のボーアの原子模型で、ある規則にもとづく場合に安定して電子が存在していることが仮定された。「どうして加速度運動をしているのに、電磁波を放射してエネルギーを失わないのか」については、前期量子論(ボーアの原子模型もこれに含まれる)を経て、量子論に至って電子は「点のようなもの」ではない、とする事で最終的に結論された。
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