国内区分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 21:49 UTC 版)
「ハールィチ・ヴォルィーニ大公国」の記事における「国内区分」の解説
ハールィチ・ヴォルィーニ大公国は、南のハールィチ公国と北のヴォルィーニ公国という二つ中央の公国から成り立っていた。その両公国の境界線は、ハールィチ側の町であるヤロスラウ・リヴィウ・ズヴェヌィホロド・テレヴォビリと、ヴォルィーニ側の町であるステイシク・ベルズ・クレメテツィとの間におかれていた。両公国はいくつかの「分公国」にわかれ、その分公国は中央の公国に属し、大公たちの子息あるいは在地の公たちによって治められていた。 公式的にヴォルィーニ公国は、その首都であるヴォロディームィルにちなんでヴォロディームィル公国とよばれ、13世紀初頭までは全ヴォルィーニ地方を支配していた。しかし13世紀以降、その公国は大公たちの子息の家督分配と貴族争いによって「分公国」にわかれた。中央の公国は、相変わらずヴォロディームィルの公座を中心としたヴォロディームィル公国に残っていたが、その東はルーツィクを公座(首都)とするルーツィク公国、南はベルズを公座とするベルズ公国、西はホルムを公座とするホルム公国、北はベレスチャを公座とするベレスチャ公国が存在していた。さらに、夫々の分公国内にはより小さな公国あるいは領地があったが、詳細ははっきりしていない。 ハールィチの地方もヴォルィーニと同様に「分公国」から成り立っていた。それは、中央の公国はハールィチを公座とするハールィチ公国、北のズヴェヌィホロドを公座とするズヴェヌィホロド公国、西のペレームィシュリを公座とするペレームィシュリ公国、そして東のテレヴォビリを公座とするテレヴォビリ公国であった。それにくわえて、ドニステル川の中流地域も自治権を保っている領地が存在し、それはハールィチ公国に臣従していた。ハールィチの諸分公国は13世紀半ばまで存在したが、それ以降はダヌィーロ大公が統一したハールィチ公国の中で融合された。 13世紀後半になると、ハールィチ・ヴォルィーニの大公たちは中央政権を強めると意図し、残りの「分公国」を廃止し、その代わりに「州」を設置した。14世紀において「公国」という名称は、ハールィチとヴォルィーニしか使わなかったのである。
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