喧嘩祭りと「絶対無事故」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 16:08 UTC 版)
「森の祭り」の記事における「喧嘩祭りと「絶対無事故」」の解説
一方で森の祭りは「喧嘩祭り」の通称があるとおり、荒祭りとしても知られる。 喧嘩祭りと呼ばれるようになった起源とされるのが1863年(文久3年)の「文久の大喧嘩」である。この喧嘩は三島神社の祭礼当日に秋葉神社の使者が森町の町内を通った際、使者に屋台を壊されたことから、本町と屋台を壊された下川原町との間で起きた騒動である。これにより三島神社の祭りは明治初期まで中止されることになった。 それだけでなく森の祭りは遠州地方のなかでももっとも激しい祭りとしても知られ、昭和40年代までは数年に一度の割で祭典期間中の暴力事件が見られ、1973年(昭和48年)には2日連続で死者の出る事故まで発生、警察による屋台曳き廻し中止の勧告を招く事態となった。 この暴力事件を重く見た各町の役員や祭典本部は、1974年(昭和49年)に祭りの大改革に着手「絶対無事故で祭典を行う」ことを宣言。各町の会所で「絶対無事故」の掛け軸を掛け、モラルの向上・喧嘩の防止を呼びかけている。それ以降祭りのモラルは飛躍的に向上し、「荒々しくも規律・統制の取れた祭り」として知られるようになってきている。
※この「喧嘩祭りと「絶対無事故」」の解説は、「森の祭り」の解説の一部です。
「喧嘩祭りと「絶対無事故」」を含む「森の祭り」の記事については、「森の祭り」の概要を参照ください。
- 喧嘩祭りと「絶対無事故」のページへのリンク