唯善との争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 07:49 UTC 版)
正安4年(1302年)、覚恵と唯善の間に起こった留守職就任問題が勃発する(唯善事件)。 徳治元年(1306年)、覚惠は唯善に大谷廟堂の鍵を強奪され、占拠される。覚如・覚惠は、三条朱雀の覚如の妻の実家に避難する。 徳治2年(1307年)、覚惠、三条朱雀にて入滅する。 延慶2年(1309年)7月、青蓮院により大谷廟堂留守職は、覚如に継承される事が裁定される。敗れた唯善は、大谷廟堂を徹底的に破壊し、御影像(親鸞の木像)と遺骨の一部を奪い、鎌倉へ逃亡する。(唯善事件、決着。)しかし東国門徒は、大谷廟堂留守職継承を血縁に限定されるのを嫌い、無条件には覚如を認めなかった。やむなく留守職就任を前提とした十二か条からなる懇望状(同年7月26日付)を記す。 なお、大田壮一郎は、大谷廟堂留守職の裁定を下したのは、同じ天台宗門跡の妙香院であるとする(大田説によれば、室町時代に妙香院が青蓮院に吸収されるまでは本願寺は妙香院の影響下にあったとする。ただし、覚如と唯善の抗争および続く覚如と存覚の抗争中には青蓮院門跡が妙香院門跡を兼ねていた時期もある)。 延慶3年(1310年)、東国へ勧進と留守職承認の懇願の為に赴く。半年にわたる懇願の末、承認され正式に留守職を継承する。 延慶4年/応長元年(1311年)、親鸞五十回忌に当たり、御影像と影堂を再建する。
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