和田正苗
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和田 正苗(わだ まさなえ、1848年(嘉永元年/弘化5年)8月17日 - 1904年(明治37年)11月19日)は、日本の陸軍軍人、開拓官吏、屯田兵大隊長。最終階級は陸軍中佐。鹿児島県鹿児島市山之口町(旧・加治屋町)出身。通常は乗太郎。根室市の和田屯田兵村の創設に尽力し、同村の名の由来となった人物である。
生涯
薩摩藩の家臣・和田米助の長男として生まれる。和田家は代々島津氏に仕え、稲留流鉄砲の師範を務めた家柄であった。戊辰戦争では藩士に従い上京・従軍し、のち明治天皇の御親兵として採用された。
明治4年(1871年)名を「正苗」と改め、陸軍中尉に任官。二番大隊四番小隊長を命ぜられる。翌1872年には陸軍大尉、1873年近衛兵第一大隊小隊長となるが、1875年に眼病のため依願免官した。
明治9年(1876年)に開拓使十四等出仕として根室に赴任し、野付・標津・目梨郡の漁場巡視を担当。 明治10年(1877年)西南戦争勃発に際し再び召集され、各地の戦闘に参加した。戦後は東京鎮台に勤務し、勲五等受章、正七位に叙せられた。
1880年以降、根室郡外八郡長を兼任し、地域行政や漁業・農業振興を推進した [1]。1882年に根室県発足後も県政に関わり、農商務省御用係を経て根室農工事務所心得となった。
1885年、根室屯田兵仮事務所を設立し、屯田兵少佐に昇進。翌1886年に根室支庁発足に伴い、士族移住を指導して屯田兵第二大隊を編成した。同年には福井県・石川県・新潟県などから士族220戸を受け入れ、根室村に第一中隊を設けた。翌年に屯田兵第二大隊長に就任[2]。
明治21年(1888年)には鳥取・福岡・広島などから120戸を受け入れて第二中隊を設け、翌1889年、これらの地域を統合して「和田村」を新設した [3]。村名は彼の功績にちなむもので、根室から千島列島に至る開拓の拠点として発展した。 1891年には司令官永山武四郎の巡視に同行し、兵村内に屯田兵記念碑を建立している。
晩年
明治27年(1894年)には病により休職し、鹿児島へ帰郷。明治31年(1898年)予備役となった。脚の切断を勧められるも「軍人が脚を切っては戦えぬ」と拒否し、そのまま病状が悪化。明治37年(1904年)11月19日死去。没後、宮内省より従五位に叙せられた。
西郷隆盛との関係
青年期、西郷隆盛に師事し、陽明学者春日潜庵の門に遊学した五人の一人として名を連ねる(『西郷南洲遺訓』所収)。西郷は和田らに「書物の蠧むしになるな」「活きた学問をせよ」と諭したと伝わる。この精神がのちに和田の開拓行政・屯田兵教育にも影響を与えたとされる [4]。
参考文献
- 『根室郷土史』(岩崎書店、1951年)
- 『駅名の起源』(日本国有鉄道札幌営業所、1950年)
- 『禅眼に映じた南洲翁』(八光社、1940年)
脚注
- ^ 1951 & 岩崎書店, p. 468.
- ^ “和田屯田兵本部跡”. 根室市. 2025年10月22日閲覧。
- ^ 日本国有鉄道札幌営業所 1950, p. 86.
- ^ 1940 & 八光社, p. 115.
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