吉良義周の処分とは? わかりやすく解説

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吉良義周の処分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)

吉良義央」の記事における「吉良義周の処分」の解説

赤穂浪士らの切腹が行われた同日元禄16年(1703年)2月4日吉良義周荒川丹波守(御寄合)、猪子太夫御先手)が同伴し評定所呼び出され仙石伯耆守大目付)より「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主諏訪忠虎お預けの旨が申し渡された。そして、その身柄高島藩士の沢市左衛門茅野右衛門加藤平四郎渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える。 幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央松の廊下での事件の際に内匠対し卑怯の至り振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周責任を取ることとなったこと。そして、赤穂浪士吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が「不届き」としたためであった。そして、その後宝永3年1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家断絶となった

※この「吉良義周の処分」の解説は、「吉良義央」の解説の一部です。
「吉良義周の処分」を含む「吉良義央」の記事については、「吉良義央」の概要を参照ください。

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