吉村流を再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:35 UTC 版)
着々と実力をつけていった昇一は、1939年(昭和14年)に吉村雄輝を名取る。しかしまもなく太平洋戦争が始まり、稽古も自由にできないような時勢になると、18歳になった雄輝は志願して海軍に入隊、暗号兵として働いた。台湾で終戦を迎えて大阪に復員するが、帰ってみるとミナミ一帯は空襲で焼け野原となっており、代々家元に伝わった譜面や振り付けの多くも焼失していた。しかたなくヤミ屋をやって生計を立てていたが、思いがけず吉村流から、当時病気がちになっていた家元・雄光にかわって吉村流を再興してくれないかという依頼を受ける。 ここから雄輝の意欲的な舞踏活動が始まり、吉村流は一地方の花柳界の芸事から全国的な伝統舞踊の域にまで昇華してゆく。 舞では、男性は袴をはくのが常だったが、雄輝はあえて着流し姿で舞うことを選んだ。女性の所作を身につけながら育った雄輝にとって、女性の体の線を美しく表現するには衣装も化粧もいらず、ただ膝を巧みに折って全身の動きで女らしさを見せれば良かったのである。 雄輝はまた、高田実との養子の縁で親しくなっていた新派の女形・花柳章太郎を第2の師匠と仰ぎ、その誘いで1949年(昭和24年)、東京にも稽古場を設けて上方舞研究会を始めた。さらに吉村流の舞を全国に広めようと各地に稽古にも出かけている。雄輝のもとにはしだいに舞台公演やテレビ出演依頼が舞い込むようになり、全国にファンや弟子が増えていった。
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