司教・司教区・司教領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 03:35 UTC 版)
「コンスタンツ」の記事における「司教・司教区・司教領」の解説
ローマ皇帝 コンスタンティウス2世(337-361)に肖って命名されたローマ時代末期のConstancia城塞が基になって6世紀から7世紀の変わり目に司教座が設置された(後に少なからぬ教区を擁するドイツ有数の司教区に発展)。この地の貴族とメロヴィング朝のダゴベルト1世がこれに関わった。8世紀にはザンクト・ガレン修道院およびライヒェナウ修道院との関係が結ばれた。すなわち、736年から782年までコンスタンツ司教はライヒェナウ修道院長を兼務し、759年から854年までザンクト・ガレン修道院はコンスタンツ司教教会に編入されていた。司教ザーロモ3世(890-919)はザンクト・ガレン修道院長を兼任するばかりか、国王の尚書にもなっている。司教コンラート(Konrad; 934-975)と司教ゲープハルト(Gebhard; 979-995)は死後、列聖されている。11世紀前半、王室との関係は緊密になり、王室礼拝堂のメンバーが連続してコンスタンツ司教に叙任されている。11世紀半ば以後、王権は司教座聖堂参事会(Domkapitel)の抵抗に逢うようになる。しかし、ホーエンシュタウフェン朝に盛期を迎える。フリードリヒ1世(バルバロッサ)はコンスタンツ司教ヘルマン1世(Hermann I. Von Arbon; 934-975)の宮廷で1153年 に教皇 エウゲニウス3世と「コンスタンツ条約」を、1183年にはロンバルディア都市同盟と和議を締結している。これに報いて皇帝はコンスタンツ司教教会に包括的な特権を授与した。13世紀には、コンスタンツ司教は、強化された司教座聖堂参事会だけでなく、市の参事会と対決しなければならなくなる。そのけっか、司教は居所をメーアスブルク(Meersburg)やゴットリーベン(Gottlieben)に移さなければならなかった。司教ハインリヒ2世(Heinrich II.von Klingenberg; 1294-1306)は詩人や芸術家の支援者であった。14世紀は、司教の2重選挙と皇帝対教皇の争いに巻き込まれる時代となった。15世紀、スイス同盟はコンスタンツ司教領の重要部分を支配下に置いたので、コンスタンツ司教は、スイス同盟と帝国・オーストリアとの抗争に巻き込まれた。中世末期にはハインリヒ4世(Heinrich IV.von Hewen; 1436-62)、スイス同盟出身のフーゴー(Hugo von Hohenlandenberg; 1496-1530)、公会議で活躍のオットー(Otto von Hachberg)らの司教が活躍した。
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