右は奈良左は奈落さくらがり
作 者  |  
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季 語  |  
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季 節  |  
                  春   |  
                
出 典  |  
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前 書  |  
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評 言  |  
                   現代人はこれだけ危険性に満ちた巷に暮らしながら、よくもまあ生き永らえているものだと思う。あえて恐怖に目を瞑っているのか、「死ぬ奴は運が悪い」位に開き直っているのかは判らないが、いずれにせよ死生観に深刻にならなくて済む処世は、短詩型に頼ることだということを中原道夫氏は熟知しているようだ。そこにこのひとの価値がある。言葉を費消すればするほど《生死》は接近してくる。だから作者は固縛したままの言葉を抱えて詠みの分水嶺に立つ。得体の知れない不安から完全に救済されなくても、その身は救済されるかも知れないのだ。そこに賭けているのではないか。 春爛漫のそのときでさえ、《賭け》は存在する。筝曲「櫻狩」は櫻の花を求めて都を出てから夕暮れまでの情景を奏でるが、これに従えば、京都の、とある街角…右は奈良に続く道、その先には慈悲深い「古き仏たち」の抱擁が待っている。一方左に折れれば奈落へ転落する蓋が口をあけて待ち構えている。作者はここまでを詠む。これ以上は詠まない。 第四句集『銀化』より引いた。同著には表題句のほかにつぎのような句もある。 春の閨蕎麦殻は息殺しつつ あめんばう雲を足蹴とするからは 繭を出てゆかねばならぬ身の上を たちあふひ産月なれど傘さして 《現代の風狂》然としてたびたびグラビアに見る作者だが、結論ありきの詩容を嫌って、これら大景・小景それぞれに、解釈を読み手の推理・推量に委ねる術を知っている。ここに《風狂》の骨頂を見る。そこでもう一度表題句…。「奈良」と「奈落」の「奈」という字は疑問詞としての意味が深い。着流しで市井を歩く作者は今日も賭けの対象を探している。  |  
                
評 者  |  
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備 考  |  
                  
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