古屋健三_(陸軍軍人)とは? わかりやすく解説

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古屋健三 (陸軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/18 07:14 UTC 版)

古屋 健三
生誕 1895年2月7日
日本 和歌山県
死没 (1957-03-10) 1957年3月10日(62歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1918年 - 1945年
最終階級 陸軍少将
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古屋 健三(ふるや けんぞう、1895年明治28年)2月7日[1] - 1957年昭和32年)3月10日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。

経歴

1895年(明治28年)に和歌山県で生まれた[1]陸軍士官学校第30期、陸軍大学校第43期卒業[1]1938年(昭和13年)6月に航空兵団参謀に就任し[2]1939年(昭和14年)3月9日陸軍航空兵大佐に進級[2]8月1日陸軍航空本部第4課長兼陸軍航空総監部第2課長に転じた[2]1941年(昭和16年)3月に教導飛行第208戦隊長に就任し[2]1942年(昭和17年)8月1日に白城子陸軍飛行学校航法部長を経て[2]10月15日に第19飛行団長に転じた[2]

1944年(昭和19年)3月1日に陸軍少将に進級し[2]7月18日第12飛行師団長心得(防衛総司令部第6航空軍)に就任した[1]。同年9月13日常陸教導飛行師団長に転じ[1]1945年(昭和20年)4月15日下志津教導飛行師団長に就任[1]。同年7月16日第2航空軍参謀長(航空総軍)に転じ[1]8月9日ソ連対日参戦の際には航空監視哨より敵侵攻の緊急電報が届き[3]、隷下部隊を使用して前線の敵情視察を実施[3]8月12日に隷下部隊の独立第15飛行団・独立第101教育飛行団を西正面のソ連軍に対し攻撃を実施させた[3]8月14日にはソ連軍装甲車35両撃破[4]8月15日午前には自動車135両撃破の報告が挙がるなど大なる戦果を挙げたが[4]、同日正午の玉音放送により積極的攻撃を中止[4]8月16日には関東軍より停戦命令を受領した[4]

1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]

栄典

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 福川 2001, 646頁.
  2. ^ a b c d e f g 外山 1981, 421頁.
  3. ^ a b c 中山 1990, 437頁.
  4. ^ a b c d 中山 1990, 438頁.
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」211頁。
  6. ^ 『官報』第5654号、「叙任及辞令」1945年11月15日。

参考文献

  • 中山隆志 著『ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会、1990年。ISBN 4336031673 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。 ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 ISBN 4829500026 



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