反進化論法の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:54 UTC 版)
当初ファンダメンタリストの動きはそれほど組織立ったものではなかった。その状況を変化させたのが、ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンの登場だった。ブライアンは民主党の大統領候補に3度選ばれた人物であり、アメリカに婦人参政権と累進課税を導入するよう働きかけた大衆運動家である。 ブライアンはリベラルな思想の持ち主であったが、進化論は、敵を排除することで自分だけが生き残ろうとする非道徳的でキリスト教に反する悪魔の理論とみなしていた。チャールズ・ダーウィンの自然選択説に対する典型的な誤解であるが、これには当時ダーウィニズムの隠喩を社会に当てはめて解釈しようとする社会ダーウィニズムの影響も大きかった。社会ダーウィニズムはその当時、ナチス・ドイツやアメリカなどでの人種差別論や優生学の正当化の根拠となっていたのである。 ブライアンは社会ダーウィニズムから導かれるそのような思想がアメリカに広がることに危機感をもっていた。そして、反キリスト教的理論(進化論)が広まることを阻止するためファンダメンタリストと結びつき、アメリカ各州に公立学校教育の場で進化論を教えることを禁止する法律をつぎつぎと成立させていったのである。
※この「反進化論法の成立」の解説は、「進化論裁判」の解説の一部です。
「反進化論法の成立」を含む「進化論裁判」の記事については、「進化論裁判」の概要を参照ください。
- 反進化論法の成立のページへのリンク