博覧会でのマッキンリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 22:25 UTC 版)
「マッキンリー大統領暗殺事件」の記事における「博覧会でのマッキンリー」の解説
マッキンリーとその妻アイダ・マッキンリーは、その栄誉を称えるために「大統領の日」とされた9月5日に博覧会場に到着した。その日に予定された行事には私的な歓迎会と観兵式、およびマッキンリーによるスピーチが含まれていた。 6日の朝、マッキンリーはナイアガラの滝を訪れ、その午後に予定されていた公開の歓迎会に出席するために博覧会場に戻った。秘書官のジョージ・コーテルユーはそのような公開の歓迎会は大統領の安全を脅かすものと思い嫌っていた。コーテルユーは大統領に歓迎会を外すよう提案したが、マッキンリーは「なぜそうすべきなんだ?誰も私に危害を加えようとは望まないよ」と答えた。マッキンリーはコーテルユーと博覧会の会長ジョン・ミルバーンに伴われ、午後3時半に博覧会場に到着し、歓迎会が行われるテンプル・オブ・ミュージックに入った。 1865年に偽札防止のために設立されていたアメリカ合衆国シークレットサービスは、1901年時点でアメリカ合衆国大統領を護衛するという公式な任務は無かった。しかし、シークレットサービスは既に1894年以来、マッキンリーの前任者グロバー・クリーブランドの時から非公式に時に応じた護衛を行っていた。シークレットサービスはその日も大統領を守るためにそこにおり、他に地元バッファローの探偵達と、群衆に目を付けておくよう指示された11人からなる兵士の班がいた。マッキンリーはコーテルユーとミルバーンに挟まれて立ち、長い列を作っていた人々と握手をしていた。その列の中にレオン・チョルゴッシュがいた。
※この「博覧会でのマッキンリー」の解説は、「マッキンリー大統領暗殺事件」の解説の一部です。
「博覧会でのマッキンリー」を含む「マッキンリー大統領暗殺事件」の記事については、「マッキンリー大統領暗殺事件」の概要を参照ください。
- 博覧会でのマッキンリーのページへのリンク