卑賎視以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 16:39 UTC 版)
近世前期では「えた」よりも一般的に使われていた。ただし用例そのものは「エタ」の方が古く鎌倉時代の国語辞典『塵袋』が初出で、これが鎌倉末から南北朝時代にかけて「穢多」という特定の漢字が充てられてくる。 一方「かわた」の初見は永享2年(1430年)11月11日付けの土佐国香美郡の「下人売券」とされる。同文章では端裏書に「かわた四郎」と記されているが、同人が下人を買い受けたということ以外は一切不明である。 その100年ほど後の大永6年(1526年)6月12日付今川氏親朱印状に「かわた彦八」の記載が見え、これによると「かわた」は「皮のやく(役)」に関係する皮革業者であった事がわかる。2年後享禄元年(1528年)10月18日付「今川氏親後室寿桂尼朱印状」によれば「かわた彦八」は急用の時には領国内の皮革を調達すべきであると命ぜられていた。天文18年(1549年)8月24日には同じく今川氏によって「皮作商売」は八郎右衛門と彦太郎両人の独占とされ、永禄2年(1559年)8月8日には次年度分の皮革として滑皮25枚、熏皮25枚の調達を命ぜられた。 後北条氏の領国・伊豆国でも天文7年(1538年)3月9日、「かわた」21名が「御用之かわ」の上納を命ぜられると共に、他人の被官になったりすることを禁じられ、弘治4年(1558年)2月27日には生皮をふすべる様命ぜられた。 これら戦国時代のかわたは、当時賎職視されつつあった皮革業に従事していたが、まだ賎民身分としてははっきりしていなかった。
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