千葉重太郎・坂本龍馬との交流
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「原六郎」の記事における「千葉重太郎・坂本龍馬との交流」の解説
元治元年(1864年)正月に江戸に潜入した原六郎、北垣国道らは4、5ヶ月の間、桶町千葉道場に潜伏し、その後、赤坂檜町の長州藩邸に移った。 坂本龍馬と友人になった経緯について、後年、原は「その時分、私は千葉(桶町千葉道場)といふ撃剣家の家に潜伏したり、長州屋敷に居りました。坂本(龍馬)には江戸で会った。あれは勝安房(勝海舟)の門人見たやうなものだった。それから何故坂本と懇意になつたかと云うと、千葉と云う撃剣の先生がをる。因州藩(鳥取藩)のものでそこに潜伏して居つた、坂本はそこに出入りしてゐた、それが懇意になつたもとです。」と述べている。坂本龍馬との蝦夷地開拓の話はこのころのことと思われる(原六郎翁伝)。 当時、千葉重太郎の道場には、勤皇志士らが集まっており、このことが幕府の知るところとなり、一時は町奉行所百人程度の人数で桶町千葉道場が探索されそうになり、道場の全員を避難させ、重太郎本人は一人で探索方の来場を待つ状態まで追い込まれるが、重太郎の人品を知る老中・板倉勝静が「千葉重太郎は不良の徒に非ざるなり。もし浪士を隠匿するあらば、我親しく招致して諭さんとす、今公武の間疎隔を来さんとす、万一追捕の挙に出ては、彼、もとよ剣客塾中の徒と、腕の続かん限り相闘わば、まさに大事に至るべし」と重太郎を擁護した(千葉の名灸)。 当時、重太郎も文字通り命がけで志士を匿っていた。原は、その後、鳥取藩に属した山国隊の司令士として、鳥取藩士でもあった重太郎とともに戊辰戦争を戦った。明治になり、北垣は政治家・官僚となり、原は留学から帰国後、実業家となり成功するが、彼らは陰に日向に重太郎やその家族を支援した。
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