千葉県知事(県令)時代
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明治13年(1880年)3月、第2代の千葉県令(後に千葉県知事と改称)に任命される。当時高まりつつあった自由民権運動に対しては明治17年(1884年)の夷隅事件で以文会を弾圧するなどの強硬策も取った。 「総武本線#歴史」も参照 当初は千葉県における鉄道建設を支持していたが、国策としての利根運河の建設が決定されると、鉄道と利根川水運の両立は困難であるとして井上勝とともに鉄道建設に慎重な立場に転じた。船越は県内鉄道敷設を働きかけていた武総鉄道と総州鉄道に対して計画の翻意や両者の合併を図ったが、総州鉄道が東京都知事を通じて正式に出願を行ったため、やむなく武総鉄道を千葉県知事として内閣に進達した。結局、両者の鉄道敷設の出願は政府に却下されたため、東京周辺では千葉県における鉄道の開通だけが大幅に遅れることになった。ただし、船越が懸念していた「鉄道の利根運河との競合」自体は間違いではなかった事は、鉄道開通後の利根川水運の衰退からみても明らかである。 町村制導入の際には2,456あった町村を1/7の358に減らすという大規模な合併を行った。こうした政策に対して県議会の自由党系が激しく船越を非難し、更に改進党系が自由党系の非難を始めたことから県政は混乱状態に陥った。このため、明治21年(1888年)11月船越は元老院議官任命を理由に事実上の更迭処分を受けたのである。
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