千中劇場から千中ミュージックへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 10:48 UTC 版)
「千中劇場」の記事における「千中劇場から千中ミュージックへ」の解説
戦後は、1950年(昭和25年)前後に映画館に切り替わり、千中劇場と改称した。戦後の同館は、田中幸次郎の個人経営、古池義雄が支配人を務めた。1958年(昭和33年)には、同館の経営は、田中幸次郎を代表とする田中興業に変更された。当時の同館は、輸入映画(洋画)の二番館で、ファーストランの終わった映画を1週遅れで上映していた。 1959年(昭和34年)には千中ミュージックと改称し、ストリップ劇場に転身した。『映画便覧 1960』には「千中ミュージック」として掲載されたが、以降は掲載されていない。映画監督の辻光明の回想によれば、同年10月11日に公開された『歌麿をめぐる五人の女』を監督するために、大映東京撮影所(現在の角川大映撮影所)から大映京都撮影所に出張していた木村恵吾が、毎日の撮影後には同館に熱心に通ったという話が残っている。同館のショーの過激さは、すでに東京に伝わっていたのだという。開館当初の経営は、田中幸次郎を代表とする田中興業であったが、以降については不明である。作家の豊原路子が原作・主演、作家の田中小実昌も出演して、1966年(昭和41年)3月に公開された映画『豊原路子の体当りマンハント旅行』の製作に際し、当時の同館の経営者が出資したとされている。 1987年(昭和62年)6月11日、火災により焼失、閉館した。跡地は駐車場「月極千中パーキング」である。
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