創刊号の寄稿者・編集・出版
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「リテラチュール」の記事における「創刊号の寄稿者・編集・出版」の解説
1919年3月、ブルトン、アラゴン、スーポーは自作を発表する場、新しい文学を紹介する場として「反文学」の文学雑誌『リテラチュール(文学)』を創刊した。ブルトンとスーポーは24歳、アラゴンは21歳のときであった。創刊号には3人のほか、1908年に『新フランス評論』誌を創刊したアンドレ・ジッド、同誌の寄稿者ポール・ヴァレリー、レオン=ポール・ファルグ、戦前・戦後の30年にわたって同誌の編集長を務め、「新人発掘の名人」、「フランス文学の黒幕」と呼ばれたジャン・ポーラン、モンマルトルが前衛文学・芸術の中心であった1910年代からピカソ、モディリアーニらと活動を共にしていたマックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、ブレーズ・サンドラール、ピエール・ルヴェルディが寄稿した。『新フランス評論』誌は特に戦間期に党派性を排除し、外国文学を積極的に紹介したことで国際的な影響力をもつことになった文学雑誌であり、『リテラチュール』誌が後に『新フランス評論』誌と同じガリマール書店から刊行されるようになるのも、こうした文学者の支持があったからである。とはいえ、当初はブルトンの友人ルネ・イルソムが同じ1919年3月に創設した「オ・サン・パレーユ(フランス語版)」社から刊行され、販売はモニエの「本の友の家」書店が引き受けた。編集は当初は創刊者の3人が共同で行ったが、第2シリーズからアラゴンが抜け、第2シリーズ第4号からスーポーが抜けて、ブルトンが一人で編集した。
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