初期のOHL
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:11 UTC 版)
第一次世界大戦勃発時の1914年に機能されると、プロイセン参謀本部が最高司令部の中核を形成し、野戦軍の参謀本部となった。ヘルムート・フォン・モルトケ(小モルトケ)は1906年に参謀総長に就任し、事実上初代陸軍最高司令官となったが、彼は他の師団長も兼任していた。そのため小モルトケは部下、特に作戦部長のゲルハルト・タッペン(英語版)大佐と情報部長のリヒャルト・ヘンチュ(ドイツ語版)中佐に実質的な権限を委任した。これらの役員は、小モルトケに代わって陸軍最高司令官及びプロイセン参謀本部を機能させていた。 ドイツ軍は緒戦の独仏国境会戦で勝利を収めたが、マルヌ会戦が短期戦から長期戦に変わったことで戦局悪化し、OHLと最前線の間の通信が途絶え、ヘンチ中佐は小モルトケから第1軍と第2軍の本部に派遣された。陸軍が25マイルのギャップで互いに隔てられており、包囲される危険があることを発見した後、ヘンチはエーヌへの撤退を命じた。前線からのニュースを聞いて、小モルトケは9月9日に神経衰弱に苦しんだ。
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