初期の予算配分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 03:48 UTC 版)
「大日本帝国陸軍の歴史」の記事における「初期の予算配分」の解説
西南戦争に至るまでの軍の予算は、明治4年9月陸海軍定費が定められ陸軍100万両、海軍50万両となった。更に陸軍には定額外25万両が配分された、これは内乱鎮圧費として計上されていた。1872年(明治5年)からは官禄月給の支払いが陸軍定額予算から扱うようになった、それまで陸軍の官禄月給は大蔵省が支払っていた。1874年(明治7年)からは宮中御用金36,000円を年々兵備に充当し軍備増強に邁進していたが、実際には毎年の余剰予算を大蔵省に返還していた。しかし、1880年(明治13年)には政府の放漫財政支出を原因とする物価高騰により陸軍費が圧迫されていた。維新開始以来、政府は軍事費を優先的に割り当てていたが、開国以来それほど時間を経過せず西欧的資本主義体制を取り入れた明治日本の経済は近代軍備を整備維持するための経済基盤が発展途上で未成熟であった。
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