初代延恩侯
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1725年、雍正帝は朱彝梃の孫である朱之璉(中国語版)を正定府の知府に任じる際に一等侯の爵位を授けた。朱之璉が亡くなった後の1750年に一等延恩侯が追贈され、爵位を世襲とした。この名称は、清の皇帝が先の王朝の皇族にも恩を延ばしていたということを表すものである。同時に八旗の上三旗の1つである正白旗に格上げされ、明朝の祭祀を行うことを許されるようになった。ただし、延恩侯は春と秋に行われる祭祀を行うことを許されるも、明朝時代の服を着て祭祀を行うことを許されず、明の正朔を奉ずることも、明の礼制を採用する権利を有さず、当然清朝に対して臣下の礼をとることが義務付けられていたため、その役割はただの墓守に過ぎなかったとされる。この点が、保護された先代王朝の子孫は現王朝に臣下の礼を取らなくてもよい上に様々な権利を有するという、いわゆる二王三恪(中国語版)の制度とは異なるものと見なされている。延恩侯は旗人に編入されたために満州化した漢族としての扱いを受け、明王朝の末裔だという証の朱姓も名簿戸籍の中で使用されるに過ぎなかったとされる。
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