出身地と初期の活動(1260頃-1290)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 02:24 UTC 版)
「フラウエンロープ」の記事における「出身地と初期の活動(1260頃-1290)」の解説
1345-50年頃の写本に'von missen'とする記載があるのでおそらくマイセン出身であろう。マイセンには1254年以降、辺境伯ハインリヒ高貴公(Heinrich der Erlauchte)の楽団が設置されていたとされる。詩人が若くして高慢な芸術家意識のゆえに叱責されたとするのは、早い時期の伝説に属することだろう。詩人はある歌で、1278年に ブレスラウ公ハインリヒ2世(Herzog Heinrich II. von Breslau)の騎士叙任式に参加し、1278年 8月26日のマルヒフェルトの戦いの場にいたと主張している。抒情詩・叙事詩の両分野で活躍したコンラート・フォン・ヴュルツブルク(Konrad von Würzburg)の死(1287)を惜しむ追悼の歌は、模範となったコンラートの歌を凌駕する完成度の高い挽歌となっている(下に紹介)。ルドルフ1世のエアフルトにおける帝国会議(1289-90)あるいは1302年頃、別の場所で北ドイツの公侯貴族を歌っている。遅くとも1290年頃に有名な「フラウエンライヒ」(≫Unser frouwen leich≪, der ≫Marienleich≪「マリアのライヒ」)を著わした。聖母を主題とする20詩節に及ぶ長大な歌で、「雅歌」の改作の一種である。この歌が詩人の通称「フラウエンロープ」(我らの女あるじ=聖母マリアの称賛)の機縁となったのかもしれない。
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