再渡米・海外球界時代
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2000年に法政大学卒業後再度渡米し、モントリオール・エクスポズと契約。マイナーリーグからメジャー昇格を目指した。メジャー直前の3Aオタワまで昇格し、55試合に出場。打率.247、16打点、2本塁打という成績だった。このマイナーリーグ時代に大家友和から本塁打を放っている。 2001年、開幕直前に解雇された。解雇後はアメリカ独立リーグであるフロンティアリーグのエバンズビル・アターズとノーザンリーグのセントポール・セインツでプレー。同年秋に帰国し、日本ハムファイターズや千葉ロッテマリーンズなど複数の球団の入団テストを受ける。長打力を認められ、ロッテからは「内定を得た」とも報じられた。しかし、その後の練習中に右手首を捻挫してしまうといった故障の不安、当時28歳という年齢が若返りを図るチーム方針に合わないという理由で、最終的に獲得は見送られた。 その後は、2002年にメキシカンリーグのプエブラ・パロッツ、セントラル・ベースボール・リーグのジャクソン・セネターズでプレーしたが手を骨折して解雇された。 2003年はカナディアン・ベースボール・リーグのロンドン・マナークス、2004年はノース・イーストリーグのエルマイラ・パイオニアーズ、2005年は、ゴールデン・ベースボール・リーグのジャパン・サムライ・ベアーズ、2006年はオランダのプロ野球リーグのフーフトクラッセのDOORネプチューンズでプレーするなど各地を渡り歩いた。
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