内閣制と大総統制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 23:13 UTC 版)
また、孫文の唱えた大総統制に対し、宋は議院内閣制を主張した。孫文が強力な権限を持つ大総統による統治を望んだのに対し、宋は民主的な議院内閣制を主張したのである。 無論、その背景には袁世凱大総統の独裁をどう抑えるか、という問題があったのだが、宋は議院内閣制により大総統の権限を抑制しようとしたのであった。そしてこの法を以て対立するという態度が袁世凱に恐れられ、ついには暗殺されるに至った。実際、民国初期の段階で政治的主導権を握ったのは、孫文派ではなく、宋教仁であった。 このように孫文と対立し、また孫文が軍事力で袁世凱に対決しようとしたのに対し、宋は法を以て対決しようとした事から妥協的であるといわれ、「革命右派」と呼ばれ、中国では批判されてきた。しかし1970年代以後、日本でも宋教仁研究が進み、現在では現実的な愛国者であると評価されるようになってきた。 古賀勝次郎は、宋教仁の暗殺がひとつの転換点となり、もし宋教仁が殺されていなかったら、中国は、日本と同様「rule of law」=「法の支配」による近代化の道を歩いていたのではないか、との仮説を展開している。
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