兵庫県への編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:19 UTC 版)
1876年(明治9)の府県統合について、出石藩出身の桜井勉は飾磨県へ編入させるのがよいという意見を当初持っていたが、大久保利通が、開港場を有する兵庫県への編入がよいという考えを持っていたことから、最終的に兵庫県への編入が決まったという。 1881年(明治14)に鳥取県が島根県から分かれたときには、但馬が鳥取県に編入されるという噂が流れたため、但馬各郡では村ごとに集会が開かれるなどし、「因・但両国間は山岳重畳交通不便なること、人情が不同のため住民相互の協和が不可能なこと、地方政治の変換は人民を動揺させること」を理由に、鳥取県への合併反対を訴える陳情が内務省や兵庫県へなされた。
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