公行の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 16:36 UTC 版)
1720年(康熙59年)、海関監督は数十家の牙行(仲買商)のうち有力な16家を選び、そのうち5行に対しては貿易額の全額を、6行に対しては貿易額の半額を、残りの6行に対しては貿易額の4分の1の責任を負わせ、さらには、新たに加入しようとするものに対しては1千両を支払って第三の6行に加えようとした。東インド会社の記録によると、この時を以て公行の成立に至るとされている。しかし、この制度は多くの牙行の反対にあい、翌年には解散を余儀なくされた。 1726年(雍正4年)、海関監督兼広東巡撫である楊文乾は、雍正帝の許可を得て、再び有力な牙行6家を選んで外国貿易を独占させ、関税収入を確実にしようとした。ここで指定された6家は保商と呼ばれ、監督に対する責任を負った。また一般の牙行は彼らの保障のもとで貿易に参与した。 1757年(乾隆22年)、外国との貿易港が広州一港に限定されるが(詳細は広東システムを参照)、保商による貿易の独占は続く。 1760年(乾隆25年)、広州の牙行を外洋行(ヨーロッパ船担当)、本港行(タイ船担当)、福潮行(潮州船・福建船担当)に分け、同文行の潘振成を中心として、新たに9行を外洋行として組織させた。外洋行は関税や貿易に連帯で責任を負い、外交交渉までも担当するようになった。『粤海関志』の記載によれば、この時を以て公行の成立に至るとされている。
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