八重山島役所
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1885年(明治18年)4月7日八重山島役所長となり、4月10日警部を兼任した。9月石垣島川平を巡検し、山原(やまばれー)松中の洞穴風葬墓 を平家の落人の墓と誤信し、書記松原敬惟、杣山筆者大浜保嘉・石垣永篤、富川某、村代表者喜舎場兼清等と共に白骨を掘り出して合葬し、桃林寺大伝長老の揮毫により「大和墓」の墓標を建立した。 1886年(明治19年)3月18日八重山島警察署長、8月9日島役所長兼警察署長。 八重山時代かそれ以前、風土病の流行する西表島に自ら実験台になるつもりで上陸し、マラリヤを発病した。病原が未だ明らかでない中、症例が小さい村落に多く見られ、大きい集落では見られないとして、村落を合併すれば予防できるとの仮説を唱えた。また、昆虫類を採集し、1886年(明治19年)12月頃県に標本を寄贈している。
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