元軍軍議と撤退とは? わかりやすく解説

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元軍軍議と撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「元軍軍議と撤退」の解説

7月5日江南軍総司令官の右丞・范文虎と都元帥張禧諸将との間で、戦闘続行する帰還するか以下のような議論があった。 張禧士卒溺死する者は半ば及んでます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう范文虎帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公(張禧)は私と共に罪に問われることはあるまいこのような議論の末、結局は范文虎主張通り、元軍は撤退することになったという。張禧軍船失っていた范文虎頑丈な船を与えて撤退させることにした。その他の諸将頑丈な船から兵卒無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10見捨てて逃亡した平戸島に在陣する張禧軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島棄てるとその軍勢4,000人を軍船収容して帰還した帰朝後范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧部下将兵見捨てなかったことから罰せられることはなかった。 この時の元軍諸将逃亡様子を『蒙古襲来絵詞』の閏7月5日記事肥前国御家人・某の言葉中に鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」 とある。 なお、元軍のうち、宋王朝皇室の子孫 で夫の楊将軍日本侵攻従軍していた趙時妙の墓碑によると、趙時妙は台風により夫と離れ離れとなった。そのため、趙時妙は東西不明となり船で彷徨っていたが、目前青い鳥現れ、前を導いたため、これについていくと、7日経て東呉江南地方)に至り帰還できたという。

※この「元軍軍議と撤退」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「元軍軍議と撤退」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

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