佐川説と須崎廻り説の伝承
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龍馬は1862年3月24日、自宅を出立し、翌日の夜半、梼原の那須俊平・信吾父子邸に泊まっているが、その間の道筋についての古記録は皆無である。佐川説のルートは、高知市から梼原町までの最短コースとして、昔から人々が行き交ったルートである。 一方、須崎廻り説は遠回りとなるが、途中に越える峠の標高が佐川説のルートの峠より低く、かつ、一般的に知られている伝承が存在する。龍馬が脱藩した数日後、龍馬の兄の権平が、龍馬と親交の深かった濱田栄馬の家に行き、龍馬の行方を尋ねると、「人を雇って詮議したところ、須崎の町で龍馬の姿を見た者があった」というもの。ただし、龍馬の具体的な目撃場所、詮議に関わった人物や場所、その詮議の模様を見ていた人物など、全く判明していない。 その点、佐川説には、一般に広く知られている伝承はほとんどないが、複数の龍馬の脱藩道関連本には須崎の伝承よりはるかに具体的な口碑が記述されている。龍馬が佐川町斗賀野の藩士、山口彦作邸で食事し、彦作の聟で土佐勤王党員でもある片岡孫五郎が斗賀野から津野町姫野々まで、龍馬を道案内した、という伝承である。これを記載している本の一つ、前田秀徳著『写真集龍馬脱藩物語』(43頁参照)では、これは龍馬のことではなく中岡慎太郎の伝承が変容したもの、としているが、春野公麻呂著『龍馬が辿った道』(144,173,216–217頁参照)では、これは龍馬の脱藩時の出来事であり、姫野々や同津野町高野に残る龍馬の伝承地や、関わった他の勤王党員の名や屋敷跡についても記載している。
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