佐川説と須崎廻り説の伝承とは? わかりやすく解説

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佐川説と須崎廻り説の伝承

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/04 02:13 UTC 版)

脱藩道」の記事における「佐川説と須崎廻り説の伝承」の解説

龍馬1862年3月24日自宅出立し翌日夜半梼原那須俊平信吾父子邸に泊まっているが、その間道筋についての古記録皆無である。佐川説のルートは、高知市から梼原町までの最短コースとして、昔から人々が行交ったルートである。 一方須崎廻り説は遠回りとなるが、途中越える峠の標高佐川説のルートの峠より低く、かつ、一般的に知られている伝承存在する龍馬脱藩した数日後龍馬の兄の権平が、龍馬親交深かった濱田栄馬の家に行き龍馬行方尋ねると、「人を雇って詮議したところ、須崎の町で龍馬の姿を見た者があった」というもの。ただし、龍馬具体的な目撃場所、詮議関わった人物や場所、その詮議模様見ていた人物など、全く判明していない。 その点、佐川説には、一般に広く知られている伝承ほとんどないが、複数龍馬脱藩道関連本には須崎伝承よりはるかに具体的な口碑記述されている。龍馬佐川町斗賀野藩士山口彦作邸で食事し、彦作の聟で土佐勤王党員でもある片岡孫五郎が斗賀野から津野町姫野々まで、龍馬道案内した、という伝承である。これを記載している本の一つ前田秀徳著『写真集龍馬脱藩物語』(43参照)では、これは龍馬のことではなく中岡慎太郎伝承変容したもの、としているが、春野公麻呂著『龍馬辿った道』(144,173,216217参照)では、これは龍馬脱藩時の出来事であり、姫野々や同津野町高野に残る龍馬伝承地や、関わった他の勤王党員の名や屋敷跡についても記載している。

※この「佐川説と須崎廻り説の伝承」の解説は、「脱藩道」の解説の一部です。
「佐川説と須崎廻り説の伝承」を含む「脱藩道」の記事については、「脱藩道」の概要を参照ください。

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