佐多之浦の分割と近世の東佐多浦村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:46 UTC 版)
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東佐多浦という地名は江戸時代より見え、薩摩国鹿児島郡吉田郷(外城)のうちであった。村高は「三州御治世要覧」では1134石余、「旧高旧領取調帳」では1,085石余であった。享保12年(1727年)の「大御支配」と呼ばれる検地によって佐多之浦村が分村され東佐多浦村と西佐多浦村(現在の西佐多町)に分割された。また元文3年(1738年)には東佐多浦村の一部が触田村(現在の姶良市平松の一部)となった。東佐多浦村は外城制による地頭仮屋が置かれており、その周辺に麓集落が形成されていた。また野町と呼ばれる薩摩藩によって指定された商業地が広がっており、寛政年間には17戸の家がの町にあったとされる。寛政6年(1794年)の東佐多浦村の人口は149人であった。 1884年(明治17年)10月には吉田郷の戸長役場が東佐多浦の地頭館跡に設置された。同年の鹿児島県地誌によれば東佐多浦村で商を業とするものが12戸とある。
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