伊藤友司とは? わかりやすく解説

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伊藤友司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/04 13:43 UTC 版)

伊藤 友司
個人情報
生誕
伊藤 文明

(1912-05-09) 1912年5月9日
死没 (1967-08-06) 1967年8月6日(55歳没)
墓所 多磨霊園
宗教 真如苑
配偶者 伊藤真乗
子供 伊藤真聰(三女)
両親 父親:内田義平
母親:内田もとよ
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伊藤友司(いとう ともじ、1912年明治45年)5月9日 - 1967年昭和42年)8月6日)は、日本の女性宗教家真如苑霊祖・初代苑主。

僧名は眞如。大僧正。遷化後の法号は摂受心院(しょうじゅしんいん)。夫は真如苑開祖の伊藤真乗。娘は伊藤真聰

生涯

山梨県北巨摩郡高根村東井出(現:北杜市高根町)に内田家の長女として誕生。1915年12月23日、父・内田義平と死別。その後、1919年1月、母・もとよが大芝家に再嫁したので、祖母・内田きん(宝珠院)のもとで育つ。

1931年1月、甲府市の和裁学校に入学。1932年4月27日伊藤文明(のちの真乗)と結婚。東京・立川に移住。1935年12月28日運慶作と口伝される不動明王像を勧請。1936年1月、夫・真乗とともに寒30日の修行に入る。同年2月4日午前1時、祖母・内田きん(宝珠院)の霊能を伯母・油井玉恵を通して相承。同年2月8日、夫・真乗と共に宗教専従の道に入る。

1950年1月、真如三昧耶加行に入る。同年5月、真如三昧耶法を法畢する。1951年6月、「まこと教団」を「真如苑」と改め、苑主に就任。1963年、山梨県より紺綬褒章を受ける。1966年3月5日醍醐寺より権大僧正の位階を贈補される。同年11月、タイ国・パクナム寺院より仏舎利を贈られたその答礼として同寺院を訪問、ついでタイ国チェンマイにおける第8回世界仏教徒会議に夫・真乗とともに日本代表として出席。

1967年6月より1ヶ月にわたり、欧州宗教交流親善使節団の副団長として欧州7ヵ国とイスラエルを訪問、バチカンでローマ教皇パウロ6世と面会。同年8月6日、関西本部において急逝し、8月8日に醍醐寺より大僧正位を追贈される[1]。墓所は東京都府中市多磨霊園

関連項目

参考文献

  • 藤の花房・全2集(摂受院親教集、橘佐久夫編、第1集は1969年、第2集は1974年)
    上記は真如苑内における刊行物。
  • かっぽう着の法母・上中下3刊(櫻井秀勲著、学習研究社、1989年)

脚注

  1. ^ 「摂受心院刊行会」『摂受心院 ほとけの心を生きる』 (2012)中央公論新社 P374~381

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