伊上凡骨とは? わかりやすく解説

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伊上凡骨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/04 01:00 UTC 版)

伊上 凡骨(いがみ ぼんこつ、1875年明治8年)5月21日1933年昭和8年)1月29日)は、明治時代から昭和時代にかけての日本版画家、木版彫師。日本近代伝統木版の興隆に努めた[1]。本名は伊上純蔵。

来歴

1875年に徳島県に生まれる。1891年(明治24年)に上京し、浮世絵版画の彫師の大倉半兵衛に師事、木版彫刻を学ぶ。以後、木版に好意的な洋画家との接触のなかで1907年4月に「版画趣味」を唱導した[2]白馬会の機関誌『光風』の素描水彩画を彫るなどの活躍をして木版師の地位を高めた。また、文豪との交遊も深く、1900年(明治33年)には雑誌『明星』の挿絵で注目を集めたほか、1901年(明治34年)には「江戸絵の復興」を目論んで摺師の西村熊吉と組んで石井柏亭の木版画「東京十二景」シリーズの彫りなどを手がけている。

1907年(明治40年)1月にはバーサ・ラムが本格的な木版彫摺の技術習得のため来日、凡骨に師事、14週間滞在した。その後、1915年大正4年)山村耕花名取春仙松田青風、柏亭と組んだ役者絵を主とした冊子体裁の『新似顔』全5集、続いて1917年(大正6年)から1920年(大正9年)にかけて柏亭、森田恒友平福百穂坂本繁二郎小杉未醒石井鶴三との『日本風景版画集』全10集などを出版した。

その他に文芸家、青年画家たちと「パンの会」に参加。与謝野鉄幹与謝野晶子北原白秋高村光太郎吉井勇らと積極的に交流をしており、彼らに図画提供を仰いで本、雑誌などの表紙、挿絵に伝統木版を普及させている。その代表例が竹久夢二の木版画、岸田劉生の木版装丁であり、夏目漱石の本の装丁などをしている。1921年(大正10年)には劉生による図案を集めた『劉生図案画集』に参加している。

なお、凡骨による伝統木版画は『東京十二景』シリーズの内、「よし町」、「柳はし」、「下谷」は1914年(大正3年)時点で各1枚の価格が「25銭」で、当時の文芸雑誌『文芸倶楽部』、『新小説』などの1冊あたりの価格と同じであった。その後も凡骨は1917年(大正6年)の中島青果堂(中島重太郎)との提携発兌においても、山村耕花の長絵木版5点「五節句遊び」で一幅75銭、『日本風景版画』10集刊行で1集(5枚1組)が「1円」、北野恒富の『廓の春秋』(4枚1組)が「1円」という廉価設定であった。

1933年(昭和8年)1月29日死去。享年59(満57歳没)。

出典

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 79頁。
  2. ^ 伊上凡骨「版画趣味」 『早稲田文学』第2巻第4号 1907年。

参考文献




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