仁科神明宮棟札とは? わかりやすく解説

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仁科神明宮棟札

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/14 10:42 UTC 版)

仁科神明宮棟札(にしなしんめいぐうむなふだ)は、国宝仁科神明宮の、およそ20年周期での遷宮(式年造営)記録を記した棟札である。永和/天授2年(1376年)から令和元年(2019年)までの640年間・35枚にわたる棟札であり、安曇郡一帯と筑摩郡北部に勢力を持った信濃の有力領主・仁科氏による遷宮から、現在の遷宮に至るまで詳細な記録が残されている。

その歴史的重要性から、うち安政3年(1856年)までの27枚は国重要文化財に指定されている。

棟札の歴史とその内容

仁科神明宮棟札が記された最古の記録は、永和/天授2年(1376年)6月14日、仁科盛国および家臣の関次郎入道ら、鍛冶役の阿部泰経らによって執り行われたものである[1]。以降、天正4年(1576年)までの200年間にわたって、式年造営は盛国・盛房・持盛・盛直明盛盛国盛能盛康盛信の仁科家9代により受け継がれた。

主に仁科氏が神明宮遷宮を取り仕切っていた200年間は、奉行人として関氏・野口氏・八町氏といった仁科氏の譜代家臣や出家者、また小県郡の人物なども名をつらねており、また工人として阿部氏内藤氏・伯氏の名が頻繁にみられる。さらに詳細な遷宮の日付や費用、奉行の役割も記されている。

とくに永和/天授2年のものは、北朝方の元号である永和が使用されており、南北朝期の仁科氏の動向を知るうえでも重要な資料である。また、棟札内に見える磯部氏渡会氏などは伊勢系の苗字であり、伊勢神宮と仁科神明宮の関係によるものではないかとする考察も存在する[2]

天正10年(1582年)の武田氏滅亡に伴い、仁科盛信高遠城で戦死し仁科氏は滅亡、さらに天正壬午の乱による影響で、信濃国内は中小国人が入り乱れ、安曇・筑摩は上杉家小笠原家の抗争の舞台となった。この過程で仁科一門の日岐盛直は本領を退転、古厩氏・塔原氏は粛清されるなど中世以来の有力土豪勢力が駆逐され、さらに上杉方勢力も退潮した。また、抗争のすえ安曇郡一帯を制圧した小笠原氏も徳川家康に従い古河藩へと転封し、神明宮造営の主導権は松本城に入った石川氏と、小笠原移封に従わず安曇郡周辺に残った在地武士の手に渡った。

慶長元年(1596年)7月1日、石川三長細萱長知、矢口兵右衛門らの主導のもと式年造営がなされている[3]。この遷宮は、仁科氏時代のものとは大きく異なり、それまで代々遷宮を務めていた仁科家の譜代家臣に代わり、細萱氏矢口氏、花村氏など、以前の棟札には姓名のみえなかった土豪や地侍が非常に多く名を連ねている。また、石川氏家臣と思われる人物も助成の衆に名が存在している。同棟札には「國替故神役不調」と記されており[4]、これは小笠原氏とそれに従う安曇郡の有力土豪が古河へと国替えされたこと、或いは石川氏が国替により新たに松本に入部したことで神役が不調となったことを示していると思われる。

その後、松本藩主として故地に返り咲いた小笠原氏が元和2年(1616年)に式年造営を執り行った。このときにも、「春日淡路守滋野信伴」や「曽根原清右衛門尉」「中嶋大良右衛門尉」といった安曇郡一帯の在地有力者とみられる人物が関与しているが、慶長元年・元和2年の棟札以降は、それら在郷の諸人の名は見えなくなる。

小笠原氏の小倉藩転封後は松平氏水野氏戸田氏といった松本藩主に造営が継承された。

神明宮全体の遷宮は寛永13年(1636年)8月26日の松平直政による造営を最後に途絶え、以降の式年造営は一部の修理のみとなり、遷宮の規模は縮小しつつも、現代にまで続くこととなった。最新の遷宮では令和元年(2019年)のものがあり[5]、本殿の屋根など一部分の修理が行われた。

棟札の一覧

ここでは、永和/天授2年(1376年)から寛永13年(1636年)にかけて、仁科神明宮の全体が遷宮されていた260年間14枚の棟札を取り上げる(参考:信濃史料)。

  • 永和2年(1376年)仁科弾正少弼盛国(法名・盛譽)、同兄弟女子等

永和2年2月16日杣山入始、夘月10日手𨨞始、同28日借殿遷、5月8日柱立、同16日棟上、6月14日御遷宮

奉行人 :関行謙・石河貞義・河野善彭・加藤長泰・尾張部聖釡・鏡大阿

針奉行 :磯部咸高

銅細工 :道全・渡会景久

鍛冶  :阿部泰経・同泰久

文和5年/正平11年(1356年)に根知盛継・仁科右馬助が南朝の明光宮(宗良親王の子)を擁して根知城に挙兵し、北朝方の小笠原氏や沼川氏の討伐を受けており、このころには仁科氏が南朝方であったことが分かる。しかし、永和/天授2年(1376年)において、棟札の元号が北朝方の「永和」であることから、この時期までに仁科氏が北朝に降ったものと考えられている。

  • 応永3年(1396年)仁科孫三郎盛房、同嫡子長熊丸、同兄弟女子等

応永3年2月27日杣山入并手𨨞初、夘月4日借殿御遷、5月16日柱立、6月11日棟上、同14日御遷宮

奉行人 :関禅見・関禅永・野口廣阿

工人  :(大工)伯国宗・(権大工)英多宗経・(小工)伯宗継(以降、左から順に大工・権大工・小工とする)

檜皮葺 :「沙耶一円塩田庄住人」

轆轤師 :藤原某

釘奉行 :磯部忠泰

銅細工 :内藤道全

鍛冶  :阿部延経・阿部延重・阿部貞安

「長熊丸」にある「熊」の字は、仁科氏による熊野信仰に基づくものともいわれる。また塩田庄の人物が遷宮に携わっており、仁科神明宮遷宮が仁科氏とその家臣にとどまらない、より広域な範囲の人物も加わって行われたことが分かる。

  • 応永23年(1416年)仁科弾正少弼盛房(法名・盛維)、同嫡子左近蔵人盛豊、同兄弟女子等

応永23年2月13日杣山入初并手𨨞初、夘月8日借殿遷、同28日柱立、5月2日棟上、6月14日御遷宮

奉行人 :野口沙弥道盛・加藤信経

工人  :伯国宗・英多宗経・伯国安

轆轤師 :藤原光重

釘奉行 :菅某

銅細工 :内藤妙金

鍛冶  :阿部守元・阿部延経・阿部貞重

永享8年3月24日杣山入初、4月14日手𨨞初、5月1日借殿遷、同13日柱立、6月8日棟上、6月14日御遷宮

奉行人 :八木見永・野口直貞・平井光貞

工人  :伯宗次・英多国重・伯国宗

釘奉行 :関沙弥

轆轤師 :不明

銅細工 :内藤宗重・藤原善妙

鍛冶  :阿部宗光・阿部重安・阿部貞重

  • 康正2年(1456年)仁科弾正少弼平持盛、同嫡子兄弟等

康正2年2月21日杣山入初、夘月8日手𨨞初、5月1日借殿遷、同14日柱立、同26日棟上、6月14日御遷宮

奉行人 :八木豊高・野口霊幸・平井盛光

工人  :伯宗次・伯兼久・伯幸次

釘奉行 :関武安・細萱河内守(高知?)

轆轤師 :不明

銅細工 :内藤正貞

鍛冶  :阿部宗光・阿部重安・阿部貞重

2回にわたって遷宮を執り行っている仁科氏当主は、盛房・持盛の2人のみである。

造営日程は康正2年(1456年)のものと全て同一

奉行人 :八町盛安・佐宇盛定・野口兼久

工人  :伯幸次・伯兼次・徳次郎

釘奉行 :関武安・遠藤伊賀守某(高知?)

轆轤師 :不明

銅細工 :内藤正貞

鍛冶  :阿部安貞・阿部安重・阿部重久

明応5年2月8日杣山入初、夘月8日手𨨞初、5月1日借殿遷、同8日柱立、同18日棟上、6月14日御遷宮

奉行人 :関盛安・八町高長

工人  :伯幸次・伯兼次・伯守次

釘奉行 :関盛泰

轆轤師 :不明

銅細工 :肥前守家次

鍛冶  :阿部安重・阿部憲次

明応5年(1496年)以降の造営記録では、例年に比べると奉行人・釘奉行・鍛冶の人数が減っており規模が縮小している。この原因は、仁科氏が信濃守護・小笠原氏と対立し、文明12年(1480年)穂高合戦に敗北するなど劣勢を強いられていたためとする説がある。また、明応5年(1496年)棟札以降、遷宮に携わる人数は減るいっぽうとなっている。

永正13年2月9日杣山入初、夘月8日手𨨞初、5月1日借殿遷、同14日柱立、同16日棟上、6月14日御遷宮

奉行人 :周防守吉宗・三郎太郎

工人  :掃部助盛次・兼次・大次郎

釘奉行 :不明

轆轤師 :不明

銅細工 :内藤某・八町右京亮

鍛冶  :右馬次郎兼次(阿部兼次?)

天文5年2月21日杣山入初以外の日程は永正13年(1516年)のものと全て同一

奉行人 :周防守吉次

工人  :掃部

釘奉行 :不明

轆轤師 :不明

銅細工 :内藤某・藤左衛門

鍛冶  :右馬次郎兼次

  • 弘治2年(1556年)仁科孫三郎平盛康、嫡子孫三郎、同女子等

杣山入初・手𨨞初は永正13年(1516年)のものと同一、8月1日御遷宮

奉行人 :長生寺仁科四郎三郎

工人  :甚三郎長吉・対馬守吉次・越後守吉貞

釘奉行 :不明

轆轤師 :不明

銅細工 :内藤某・窪甚介

鍛冶  :右馬次郎兼次

天正4年2月9日杣山入初、3月8日未時手𨨞初、5月1日借殿遷、6月14日御遷宮

奉行人 :祖繁

工人  :金原長吉・源衛門吉次・参右衛門吉政

釘奉行 :不明

轆轤師 :不明

銅細工 :甚介

鍛冶  :阿部兼次

祖繁という人物は盛信に従って安曇郡に入った甲斐の人物ともされている。また、仁科氏の遷宮は、盛信によるものが最後となった。

  • 慶長元年(1596年)石川玄蕃頭三長・細萱河内守大朝臣長知・大窪与三吉次

慶長元年2月吉日杣山入、3月内手𨨞初、5月1日借殿遷、7月1日御遷宮

工人  :夏目吉次・舟山吉久・金原重次

轆轤師 :不明

鍛冶  :阿部兼次・阿部吉助・伊藤総助・北原彦三

山奉行 :矢口兵右衛門

助成之衆:蓮盛寺・玄斎・杢崎九左衛門尉・杢崎勝三郎・木村美作守・伴左衛門尉・伴里太夫・伴孫二郎・花村九郎右衛門尉・中島作右衛門尉・塩島助内・井口帯刀・二重勝右衛門尉・渋田見源介・堀江助右衛門尉・丸山丹後守・渡辺金内など1寺49名

この棟札では、山奉行や助成之衆といった、それまでの造営記録にはみられない役割が記され、名を連ねている氏族も天正4年以前の棟札に見えない姓が非常に多くなっている。仁科氏滅亡・小笠原氏の台頭と移封・石川氏の松本入城といった情勢の激動に伴って、神明宮の造営を担う人物や、造営体制も変化した。

元和2年7月吉日杣山入、手𨨞初9月吉日・借殿遷10月14日・御遷宮12月14日

地頭  :渋田見盛重

執権  :春日(滋野)信伴

山奉行 :曽根原清右衛門尉・矢口新右衛門尉

作叓奉行:平林茂兵衛尉・中嶋大良右衛門尉

工人  :周防守兼正・弥右衛門尉(権大工)・源右衛門尉(権大工)・数十人の小工

助成之衆:二重勝右衛門尉・矢口兵右衛門尉・松村半兵衛尉・曽根原九右衛門尉・倉科和泉守など15名

慶長元年(1596年)の棟札が初出である山奉行・助成之衆に加えて、「作叓奉行」なる役職も出現しており、造営体制の変遷を見て取れる。慶長・元和の2枚の棟札は、安曇郡周辺の在地郷士や小笠原氏、石川氏に連なる人物が名を連ねている。

造営日程・奉行人ともに不明 8月26日遷宮 棟札には仁科神明宮とその再興に関する長文が記載されている

松平直政による造営を以て、神明宮の本殿・借殿の建て替えを伴う式年造営は終焉し、以降は約20年毎に一部分の修理のみを行う形で式年遷宮が続けられ、現在に至っている。


棟札には、ここで記したような遷宮日程や造営を行った人々とその役職のみならず、「作料事」として「檜皮葺」「鉄細工」「同細工」「棟瓦置」等の造営工程にかけられた費用や物資(馬、絹、綿など)についても詳細に記されている。

式年造営の変遷

南北朝~室町期にかけては、工人として伯氏、また安曇郡外の人物も棟札に見え、銅細工の内藤氏に加え、仁科氏家臣である関氏・野口氏など中世武家の名が多く記載されている。しかし室町末期から戦国期にかけて、伯氏や内藤氏が棟札から姿を消し、工人は金原氏などが務めるようになった。

安土桃山時代から江戸時代では、中世安曇郡の有力武士に代わって、それまで遷宮に関与していなかった細萱氏・曽根原氏・矢口氏などの土豪が式年造営を主導するようになり、遷宮の統監者も石川氏や小笠原氏に変遷する。また、この時期には中世仁科氏時代の造営体制から、「山奉行」「地頭」「助成之衆」といった新たな役職等を以て行われる造営体制に変化した。

遷宮の日付では、仁科氏のものは概ね6月14日に遷宮が完成していたが、仁科氏が滅亡し、安土桃山期に入ると日付はまばらとなる。寛永13年(1636年)8月26日の遷宮を以て神明宮全体の遷宮は終わりを告げた。

参考文献

参考文献

  1. ^ 大町市史
  2. ^ 大町市史 「仁科神明宮にみられる氏人の考察」
  3. ^ 「信濃史料」慶長元年七月一日条「細萱長知、安曇郡仁科神明の式年造営を行い、この日、遷宮を行ふ」
  4. ^ 「信濃史料」巻十八 p.176
  5. ^ 国宝・仁科神明宮”. 仁科神明宮. 2025年11月14日閲覧。



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