仁科衆
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仁科衆(にしなしゅう)は、信濃国に存在した武士団。仁科氏の一族・家臣団から構成されていた。この記事では、戦国時代および安土桃山時代、江戸時代初期における仁科氏家臣団の動向をみる。
戦国時代~江戸時代
戦国時代の動向
仁科氏は、古くから安曇郡一帯に勢力をふるった信濃の有力国衆であり、南北朝時代までには越後根知方面にも影響を拡大していたと考えられ[1]、室町時代には筑摩郡へも進出するなど、勢力を拡大していた。この過程で、沢渡氏・飯森氏・須沼氏・日岐氏・古厩氏などの分家が興り、仁科氏一門・家臣団が造成されていった。
戦国時代、武田晴信が安曇・筑摩両郡に進攻すると、去就を巡って仁科氏内部で対立が起き、天文21年(1552年)には小岩盛親、弘治3年(1557年)には飯森盛春が、いずれも武田軍との戦闘のすえ討たれた(小岩嶽城の戦い、小谷城の戦い)。その一方で、天文22年(1553年)では堀金氏がいち早く武田氏に出仕[2]、本家の仁科盛康も同年中には晴信に出仕し、仁科家は武田家臣として組み込まれた。
武田氏の信濃支配下では、深志城代の今福友清が仁科衆の監視をつとめている[3]。「甲陽軍鑑」には、仁科入道が80騎を率いる侍大将、また仁科盛信が100騎の統率者として記されており、仁科衆がこれを構成していたと思われる。
永禄4年(1561年)、仁科家当主・仁科盛政は第四次川中島の戦いに参陣しており、このとき仁科一門の堀金政氏が戦死した。同年には穂高盛棟が穂高神社式年造営を行っている[4]。
永禄10年(1567年)には、盛政の家臣である堀金盛広・野口政親・日岐盛次・古厩盛隆・関政直・小宮政知・穂高盛棟・等々力定厚・沢渡盛則・渋田見政長の計10名が武田氏に忠誠を誓う起請文を生島足島神社に献じている。
堀金盛広は、のちに他家と独自に婚姻関係を結んだことが原因で、武田氏により信濃から追放され越中国堀金山の開基になったとされる。
永禄12年(1569年)11月18日には井口帯刀が武田氏より所領を授かる[5]一方、元亀元年(1570年)の駿河花沢城攻めでは、沢渡盛則が戦死している[6]。同年には、跡部勝資が曽根原氏へ軍役を命じる代わりに加増を約し、元亀元年(1570年)8月、武田信玄が青沼助兵衛尉を介し、曽根原氏の軍役を奨励して領地を加増した[7]。
天正5年(1577年)4月26日では仁科盛信が仁科氏の宿坊を高野山遍照光院と定めている。9月5日には等々力氏・細野氏が信越国境を偵察しており、盛信に賞された。
天正6年(1578年)7月、武田勝頼が上杉景勝に諫言するよう山吉一族および仁科中務丞なる人物に命令している[8]が、この中務丞は仁科衆の一員か。
同年9月には、山田若狭守が盛信より所領を受領している。また、同時期には盛信が仁科衆を統率し越後国の西浜(現:糸魚川市)を制圧し、仁科衆の一部は越後方面の城に駐屯している。
天正7年(1579年)、穂高盛員が穂高神社の式年遷宮を実施した。
天正8年(1580年)には、仁科盛信が等々力治右衛門に馬市を立てさせ、また諸士の参陣を促させている。天正9年(1581年)、伊勢神宮御師の宇治久家が信濃国道者之御祓くばり日記を記しており、「仁科すわ千代殿」「すぬま殿子息」等、仁科氏一門・家臣も日記に名がみえている[9]。
天正10年(1582年)2月末、甲州征伐の際、盛信らは高遠城にて織田信忠勢の前に、諏訪・上伊那衆と共に衆寡敵せず討死しているが、仁科衆のうち盛信に殉じ戦死した者の記録は存在しない[10]。
天正壬午の乱から小田原征伐・古河移封までの動向
武田氏が滅亡したのち、間もなく織田信長も本能寺の変に自害したため、織田領国となって日の浅い信濃では、上杉・徳川・北条らが領土を競い合う天正壬午の乱が勃発する。
沢渡盛忠は初め上杉氏に仕えたが、間もなく、父・長時の没落以来32年ぶりに故地筑摩郡への帰還を果たしていた小笠原貞慶に転じ、他には古厩盛勝や渋田見氏らも貞慶に出仕した。その一方、日岐氏は上杉に通じたため、貞慶の攻撃を受けて天正11年(1583年)日岐盛直が没落、上杉氏を頼った(日岐盛直、日岐城の戦いを参照)。盛直はその後、景勝の処置で松田氏を継いだ他、盛直嫡子の孫三郎も景勝より仁科氏惣領家の名跡継承を認められている。
一方では貞慶により天正11年(1583年)2月古厩氏が粛清され、さらに古厩盛時が松川にて討ち取られ、沢渡盛忠も捕えられている(盛忠はその後釈放される)。
その後は飯森日向守、細萱長知、渋田見源介といった安曇郡国衆が「仁科衆」として貞慶のもとで活動した。また、日岐における小笠原・日岐間の抗争の最中に日岐盛直から貞慶に転じていた盛直の弟・日岐盛武、盛直の義弟・穂高盛員も貞慶に「粗略に扱わない」とする起請文を提出され[11]、盛武は日岐遺跡を宛がわれ、盛員は従来通り穂高神社式年造営を任せられるなど、重用され始める。矢口兵右衛門なる人物も、貞慶より安曇郡の筋奉行に任じられた。
天正11年(1583年)3月3日には、沢渡氏配下の千国十人衆が貞慶より小谷筋を警戒するよう指令され[12]、千見城に沢渡盛忠らが在番するなど対上杉戦線に派遣された。その一方、上杉方も岩井信能や西片房家らが仁科口への経略を行い[13]、小田切四郎三郎が仁科表まで侵入し貞慶方を討ち取るなど[14]、仁科衆は上杉・小笠原間の抗争に巻き込まれることとなる。
天正12年(1584年)2月29日には仁科衆が鬼無里へ侵攻し、上杉方の首級30人余りを討ち取る大勝を挙げた[15]。同年4月19日、仁科衆は小笠原貞慶指揮のもと、麻績城を攻めるべく更級郡の篠木尾に進軍するも、21日には敗れる。
25日では、細萱長知・渋田見伊勢守らが森城の普請を行っており、27日には日岐盛武や宇留賀与兵衛が犬甘久知の陣に派遣され、久知は盛武・与兵衛と協力して敵を迎え撃つよう命令されている[16]。
同年8月28日には、日岐盛武が川中島に出陣し、宇留賀与兵衛は更級郡方面の経略を担当している[17]。
天正13年(1585年)9月には、仁科衆は小田切左馬助を前に、安曇郡千見にて敗退した[18]。天正14年(1586年)6月10日では、仁科衆らが千見城を普請した[19]。同年の9月18日には細萱長知らが小笠原将士の統率権を与えられて越後国に進攻[20]し、また翌19日では渋田見政長が水内郡に所領を得た[21]。また天正16年(1588年)では、平林弥衛門が貞慶より2度にわたって所領加増を受けている[22]。
天正17年(1589年)には沢渡盛忠が千見在番の功を小笠原秀政(貞政)より賞され[23]、細萱河内守と共に翌春まで在番を行うよう指令されている。また天正18年(1590年)には井口平八が父・帯刀の領分継承を貞慶に認められた。
天正18年(1590年)4月8日には日岐城在番衆として平林氏・遠藤氏・矢口氏・滝沢氏らが任命されており[24]、同年には貞慶・秀政父子は、小田原攻めに参陣した。
このとき、沢渡盛忠らが貞慶より相模での戦況を報告されており、仁科衆は小笠原氏の出陣中、主に安曇郡で留守を務めていたと考えられる。同年小田原城は開城、北条氏は滅亡すると同時に、小笠原氏が古河藩に移封される。このとき、沢渡氏が350石、宇留賀氏が200石、丸山氏が100石を与えられる形で移封に同行し、仁科衆の有力者は信濃を去った[25]。宇留賀与兵衛は、その後は天正19年(1591年)に50石の加増、文禄3年(1594年)に300石の加増を受け取るなど厚遇された[26]。
文禄2年(1593年)1月には、渋田見源介・穂高内膳・二重内記といった旧仁科衆の諸士が、文禄の役にて、名護屋城への出陣を命令されている[27]。
江戸時代初期の動向と仁科衆の終焉
古河に移った仁科衆が存在する一方、細萱長知らは安曇郡に残り、諸寺の再興や慶長元年(1596年)仁科神明宮の式年遷宮にも参画した。
慶長18年(1613年)には小笠原秀政が松本藩に入り、慶長19年(1614年)には小笠原忠政が渋田見縫殿助に松本城下を取り締まらせている[28]。同年11月5日には、千見城番として塩島氏・平林氏、松本城番として矢口甚之丞・曽根原源左衛門らが名を列した。同年11月26日には、等々力次右衛門尉が小笠原忠脩麾下として大坂冬の陣に参陣している。このとき次右衛門尉に対し、父から勘当された小笠原家臣の大輪監物元久が執り成しを乞うている[29]。
元和2年(1616年)には小笠原忠政と共に渋田見盛種が仁科神明宮遷宮を主導、矢口・曽根原両氏が山奉行を務めた[30]。
そののち、小笠原忠政が小倉藩に移封されると同時に、渋田見・沢渡らもこれに従い、また江戸幕府による統治も進み、安曇郡内に残存した旧仁科衆の諸氏も帰農していき、中世武士団としての仁科氏家臣団は離散・消滅した。
江戸期における旧仁科衆諸氏
寛永13年(1636年)の仁科神明宮式年遷宮と同時期に、日岐盛貞という人物が神明宮へ銅鏡を奉納している[31]。また、渋田見氏は小倉藩で家老職などを務め、沢渡氏らも小倉藩士として存続、一方で日岐盛直流の日岐氏は米沢藩士となった。安曇郡に残った諸家は多くが帰農し、在郷有力者として近世を存続した。
また、江戸期には、若一王子神社の流鏑馬において曽根原家らが射手を務めていた[10]。
仁科衆の一覧
主な仁科氏一門とその家臣団の一覧を記す。
甲斐武田家支配期
- 穂高盛棟
- 穂高盛員
- 渋田見政長
- 渋田見盛種
- 小宮政知
- 関政直
- 堀金政氏(戦死)
- 堀金盛広(追放)
- 沢渡盛則(戦死)
- 沢渡盛忠
- 等々力定厚
- 等々力治右衛門
- 日岐盛次
- 野口政親
- 仁科すわ千代
- 須沼某
- 古厩盛勝
- 古厩盛隆
- 曽根原甚五郎
- 細野某
- 井口帯刀
- 仁科中務丞?
天正壬午の乱・安土桃山期
- 穂高盛員
- 渋田見盛種
- 沢渡盛忠
- 等々力治右衛門
- 日岐盛直(追放)
- 日岐盛武
- 古厩盛勝(暗殺)
- 古厩盛時(暗殺)
- 細萱長知
- 飯森日向守
- 井口平八
- 矢口甚之丞
- 矢口兵右衛門尉
- 宇留賀与兵衛
- 曽根原源左衛門
- 塩島氏
- 平林氏
- 二重氏
脚注・参考文献
脚注・参考文献
- ^ 「大町市史」では、南北朝期に根知盛継が仁科右馬助と合力し、宗良親王嫡子・明光宮を擁して根知城にて挙兵していることを指摘し、盛継の「盛」が仁科氏の通字であることから、仁科氏は越後根知地域の氏族と同族関係を結んでいたと考察している。
- ^ 「高白斎記」天文二十二年条
- ^ 平山優「今福浄閑斎」p306
- ^ 「三宮穂高社造営日記」永禄四年条
- ^ 「信濃史料」巻十三 「井口文書」武田信玄宛行書状
- ^ 「小倉藩沢渡氏系図」
- ^ 「信濃史料」巻十三 曽根原文書 武田信玄宛行状
- ^ 「信濃史料」巻十四 天正六年七月二三日条 p.349
- ^ 「信濃史料」巻十五 宇治久家、信濃国道者之御祓くばり日記を注す
- ^ a b 「大町市史」
- ^ 「信濃史料」巻十六 天正十一年八月七日条
- ^ 「信濃史料」巻十六 p.2
- ^ 「歴代古案」六・七 天正十一年四月二十八日条
- ^ 「続錦雑誌」三十 上杉景勝感状案
- ^ 「笠系大成附録」小笠原貞慶書状案天正十二年二月二十九日条
- ^ 「信濃史料」巻十六 天正十二年四月二十七日条
- ^ 「笠系大成附録」天正十二年八月二十八日 小笠原貞慶書状案
- ^ 「信濃史料」巻十六 p.366
- ^ 「笠系大成附録」天正十四年六月十日条
- ^ 「信濃史料」巻十六 標葉文書
- ^ 「信濃史料」巻十六 有澤文書
- ^ 「信濃史料」巻十六 p.546,p.573
- ^ 「笠系大成附録」天正十七年十月七日条 小笠原秀政書状案
- ^ 天正十八年四月八日小笠原秀政朱印書状案
- ^ 「丸山文書」・笠系大成附録「御證文集」
- ^ 「諸家古案集」天正十九年三月十八日小笠原秀政黒印案
- ^ 「笠系大成附録」文禄二年正月四日条小笠原秀政黒印書状案
- ^ 「信濃史料」巻二十一 慶長十九年十一月十四日丞
- ^ 「信濃史料」巻二十一 等々力文書
- ^ 仁科神明宮所蔵・仁科神明宮棟札元和二年条
- ^ 仁科神明宮所蔵文化財・銅製日岐盛貞奉納鏡
仁科衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 16:46 UTC 版)
また仁科氏の支族には、穂高・等々力・堀金・渋田見(長生寺)・沢渡(須沼)・古厩・飯森・塩島・小岩・大和田・松川・岡村・日岐(丸山)・小宮・耳塚・真々部・成相・野口などの各氏があり、戦国時代に仁科盛信の下で「仁科衆」として組織された。 平姓仁科宗家・武田両氏滅亡後、上杉氏に臣従し米沢藩士として仕えた者、小笠原氏に出仕した者に分裂したが、多くは兵農分離で帰農した。
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