五島牛の誕生(明治から昭和戦前期)
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「五島牛」の記事における「五島牛の誕生(明治から昭和戦前期)」の解説
公式記録として五島牛の名が登場するのは1917年(大正6年)発行の農商務省『和牛の調査』である。同書によると1881年(明治14年)頃に男女群島で朝鮮の船が難破し、女島に流れ着いた朝鮮牛を福江村(現・五島市)の日比野新七が連れ帰り飼育したところ体格が在来種よりも優れていたため、1889年(明治22年)頃より朝鮮牛の輸入が進みウシの大型化が進んだという。本格的なウシの改良は1912年(明治45年)にデボン種を在来種と交配することから始まり、この試み自体は失敗するが、後に在来種の中から優秀なオスを種牛として選抜し繁殖を図った。この頃はまだ役牛としての利用であり、『和牛の調査』は五島牛が農耕用に最適であると評価し、長崎県内はもとより岡山県や大阪府へも出荷されていた。1914年(大正3年)時点の五島牛(五島で飼育されるウシ)の飼育頭数は12,931頭(うちメスが10,085頭)であった。 1938年(昭和13年)から1943年(昭和18年)にかけて五島畜産組合は鳥取県から優良雄牛を導入して五島牛の改良を図り、1941年(昭和16年)には五島種畜場を開設するなど精力的に活動した。
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