久高島や知念城内での祭祀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
「羽地朝秀」の記事における「久高島や知念城内での祭祀」の解説
羽地は、久高島や知念城の祭祀の際に国王が赴くことについても難色を示した。 久高島は琉球開闢神話の聖地であると言われていたため、国王は毎年旧二月に行われる祭祀に神女を伴い隔年で参詣していた。これに対し羽地は、久高島には港が無いうえ旧二月の強風が国王の身体に障ること、久高島祭祀は聖賢の規式ではないうえに、神女が祭祀に参加するということが日本や中国の人に知れたら嘲笑されるということ、知念城内は大変狭く火事になったら逃げ場がないこと、また周辺地域の百姓たちにかかる国王接待にかかる費用がバカにならないという理由から、参詣は国王一代限りとするか名代を派遣する。あるいは中国や日本から仏教を移入したのと同様に、久高島や知念城の神を首里城の近郊に移して祀れば良いとした。 羽地はこうした自説を補強するために、琉球人は日本から渡来し、琉球における天地・山川・草木などはみな日本と同じであるという説を唱えた。この説が、伊波普猷(いは ふゆう)を代表する後の学者たちによって「日琉同祖論」として取り上げられるのである。
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