久高島住民強制疎開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:42 UTC 版)
「屋嘉捕虜収容所」の記事における「久高島住民強制疎開」の解説
「久高島住民強制疎開之記念碑」 金武町国道329号沿い屋嘉ビーチ前バス停横にもう一つの碑、2006年に竣工された久高島住民強制疎開の碑がある。強制立ち退き命令を受けた久高島の住民は、疎開先の屋嘉住民の支援を感謝し、「久高住民強制疎開の事実を、戦争というものの実態と共に後世に永く語り継ぎ、平和を守る礎と資する力となることを願って」建立したと記されている。 現在の南城市にある久高島は「神の島」として名高い島であり、戦争当時は男性はほとんどいない女ばかりの島になっていた。女性たちは知念岬に日本軍の陣地構築作業に駆り出されていたが、十・十空襲の跡、1945年1月7日に日本軍から強制立ち退き命令がだされ、高齢者など残りの住民が屋嘉に移され、屋嘉の集落に身を寄せた。その後、米軍が屋嘉に到達したとき、そのまま捕虜となった島民もいたが、やんばるに逃げ込み、米軍に投降後は漢那収容所など北西海岸の収容所に収容され、そこで栄養失調やマラリアで亡くなった住民が多いといわれる。その後は知念市の収容所に収容され、1946年5月に帰島となった。
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