中條神社社記・槇家系記以外の古文献の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/21 06:41 UTC 版)
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「宝飯郡鍛冶村古屋敷・真木越中守定善・同善兵衛」(三河国二葉松)とみえるほか、1561年(永禄4年)に真木兵庫之助重信が牛久保及び一戦で、奮戦して討死した記述がみえる(真木家文書・東京大学史料編纂所蔵)・(詳細→真木氏 (牧野家重臣))。 また1569年(永禄12年)真木又次郎が遠江国浜名郡に、一向一揆鎮圧のため遠征して戦傷死し、その妻、花藻は、亡き夫のあとを追って井戸に飛び込み自殺している(牛窪記など)。 牛窪密談記では、牧宗次郎(真木トモ)が1529年(享禄2年)、吉田城主・牧野氏のため力戦したことが描かれている。 宝飯郡篠束村西宮(現:豊川市一宮町篠束)の篠束神社(篠束明神)旧記によれば、この神社は1558年(永禄元年)に兵火に罹って全焼したが、翌2年には真木次郎左衛門という者が再建し、当時は「牛頭天王社」と称したという。 このほか越後長岡藩文書、新潟県長岡市蒼柴神社文書(諸士由緒記)などにも真木氏(槇氏)の三河国在住時代の事績を伝える記述がみられる。
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