中央文壇へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/11 05:00 UTC 版)
1919年、千鳥を育てながら、4月に120枚の小説「諦観」を脱稿。12月に小説「実らぬ畑」が大阪朝日新聞社四十年記念懸賞小説佳作に入選。翌1920年2月から7月には小説「残されし花」を152回連載した。 1921年には、先に脱稿していた「諦観」が大阪朝日新聞」懸賞小説二位に入選した。選者の有島武郎には激賞されたこの作品は、6月から27回にわたって連載され好評を博した。このころから中央文壇にも名前が知られるようになり、古代子も作家としての自信を深めていく。 1922年8月に「病床詩片」を文芸誌「微明」に発表。11月には文芸誌「水脈」に「御安宿」を発表。1923年から24年にかけては、弟の卓の死、長女千鳥の死に直面しつつも、詩や随想を文芸誌に投稿。長女の死後には、『千鳥遺稿集』を上梓した。
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