上田武司 (競馬)
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(1953年日本経済新春杯表彰式)
上田 武司(うえだ たけし、1909年4月4日[1] - 1979年2月13日[1])は、日本中央競馬会 (JRA) ・栗東トレーニングセンターに所属していた調教師。福岡県出身。養子に上田三千夫がいる。
来歴
1909年、福岡県小倉市北方(現・北九州市小倉南区北方)で生まれる[1]。
1923年、福岡県立中学明善校(現・福岡県立明善高等学校)を中退し、1924年7月、小倉競馬倶楽部(小倉競馬場)の森文一厩舎に入門する[1]。
1927年、騎手兼調教師免許を取得、小倉競馬場に厩舎を構え独立する[1]。
1951年10月14日、チャレンジカップのサチホマレで重賞初制覇[1]。
1954年4月18日、皐月賞をダイナナホウシユウで勝利しクラシック競走初制覇[2]。
1962年から1963年・1966年・1968年から1976年に日本調教師会関西本部長を務める[2]。
1962年8月19日、小倉競馬第2競走で管理馬9頭を出走させ(17頭立て)、1〜5着を独占した(JRAの一競走最多出走厩舎記録)[2]。
1964年、62勝を挙げ、関西リーディング調教師となる(全国2位)[2]。
1979年2月13日、急性心不全のため死去。69歳没[2]。調教師成績7450戦1071勝(重賞40勝)[3]。
人物
ものを言わない口数の少ない人物で、弟子の中島敏文の結婚式の際に、「挨拶をさせられるなら出席しない」といったという[1]。
1959年ごろからの厩務員組合との労使交渉をスムーズにまとめた。調教師の布施正は「頭がよく、人の意見に耳を傾け、部下を使うのがうまかった」としている[2]。
主な管理馬
- ダイナナホウシユウ(1954年皐月賞、神戸盃、菊花賞、1955年京都記念(秋)、天皇賞(秋)、1956年阪神大賞典)
- ミスブゼン(1955年京都牝馬特別)
- ホウシユウクイン(1958年桜花賞)
- トサキング(1961年京都大障害(春)、中山大障害(秋))
- ミスマサコ(1963年桜花賞)
- ダイコーター(1965年神戸盃、菊花賞)
- ムーテイイチ(1972年阪神障害ステークス(秋)、京都大障害(秋))
- ホウシュウリッチ(1973年神戸新聞杯)
- スズカシンプウ(1979年日経新春杯)
- ダイニホウシユウ
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
- 上田三千夫(1948年 - 1965年、騎手)
- 瀬戸口勉(1959年 - 1973年、騎手)
- 安藤正敏(1959年 - 1965年、騎手)
- 松田博資(1963年 - 1979年、騎手)
- 白井寿昭(1968年 - 1978年、厩務員→調教助手)
- 中島敏文(1969年 - 1979年、騎手)
- 坪正直(1975年、調教助手)
参考文献
- 『優駿』2010年5月号 江面弘也「続・名調教師列伝 第3回 上田武司」
脚注
関連項目
- 上田武司 (競馬)のページへのリンク