三百屋問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 04:57 UTC 版)
鈴木が弁護士として最初に大きな役割を果たしたのは、静岡における三百屋の規制についてであった。当時、日本各地の法曹界に浸透していた三百屋は、静岡においても県内の訴訟の半数に関与するなど、その影響力を大きなものにしていた。そしてこの三百屋の中には暴力や欺罔を駆使して不当な利益を上げる者もおり、社会問題となりつつあった。 この状況を憂慮した鈴木は、1922年秋に弁護士団体「法曹倶楽部」を立ち上げ、三百屋問題の是正を訴える活動を開始した。そして翌1923年(大正12年)5月に鈴木が招集した静岡弁護士会総会において、鈴木に同調した岡崎ら古参弁護士が、三百屋のうち悪質なものをリスト化しそれらとの提携を禁止する、そして同一の弁護士が県内に複数の事務所を構えることを禁止する(これにより、三百屋が弁護士から名義だけを借りて法律事務所を開設することを規制できる)、という2か条を弁護士会会則に追加することを提案した。 この総会は、従来には出席者もほとんどなかったものが、県下の弁護士ほぼ全員が出席するなど注目を集めた。当の三百屋たちも議場を取り囲み、また三百屋と癒着した一部弁護士が会則改正案に反対するなど、野次や怒号の飛び交う緊迫状態にあった。しかしこの時、名ばかりとはいえ弁護士会会長であった鈴木は、議長権限により審議を強行採決に持ち込み、結果賛成多数で改正案を可決させた。そして、同年10月20日に司法大臣により会則改正が認可された直後、鈴木は弁護士会会長を辞任した。全国の弁護士会に先駆けて静岡で導入されたこの改正会則は、11年後の1933年(昭和8年)5月に公布された改正弁護士法と「法律事務取扱の取締に関する法律」により法制化されることとなる。
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