三心の信心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 20:33 UTC 版)
法然の称名念仏の考えにおいて、よくみられるのが「三心」である。これは『仏説観無量寿経』に説かれていて、『選択集』・『黒谷上人語灯録』にもみられる語である。「三心」とは「至誠心」(偽りのない心)・「深心」(深く信ずる心)・「廻向発願心」(願往生心)のことである。 至誠(しじょう)心 真実の心のこと。真実というのは、心空しくして外見をとりつくろう心のないこと。 深(じん)心 疑いなく深く信じること。何を深く信じるかといえば、もろもろの煩悩にとりかこまれ、たくさんの罪をつくってこれという善根のない凡夫であっても、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、その名号をとなえて、思い立ってから臨終のときにいたるまで休みなく、或いは十声一声しかとなえることができなかったとしても、多くとなえても少なくしかとなえることができなかったとしても、弥陀の名号をとなえる人はかならず往生すると信じて、たとえ一度しかとなえなかったとしても、その往生を疑わない心を深心という。 廻向(えこう)発願心 自分が修めた行いをひたすら極楽にふりむけて、往生したいと願う心のこと。 三心は念仏者の心得るべき根幹をなすもので、大切なものとされている。三心を身につけることについては、『一枚起請文』にて、「ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定(けつじょう)して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と述べ、専修念仏を行うことで身に備わるものであるとしている。 このように法然の教えは、三心の信心にもあるとおり、我々人は凡夫であるということをまず認識してその上で、阿弥陀仏の大悲を仰ぎ、称名念仏の行に生涯打ち込むべきだとしている。
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