一般施策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/04 15:28 UTC 版)
第一共和国はカール・レンナー保革連合政権で幕を開けたが、同政権は共和国成立からたった一週間後に、8時間労働制を導入。その後、雇用保険制度や「労働評議会」と呼ばれる労働者による公的な合議機関が発足した。しかし、一連の改革に対する熱意は、第一次世界大戦終結から時が経つに従い、連合政権の一翼を担っていた保守のキリスト教社会党内で次第に小さくなっていった。こうして1920年には連合政権が崩壊、社会民主党はこれ以後1945年まで、連邦レベルでは野党乃至は地下活動を余儀なくされた。 だが、1919年の選挙で社会民主党が絶対多数を得たウィーンでは、同党による統治が続いた。同党はウィーンを社会民主主義政治の輝ける例とすることを目標に掲げており、実際に当時の施策はヨーロッパ全体からしても際立ったものであった。国内の保守派はこうした政治風土を嫌う傾向があったものの、ウィーンにおける社会民主党の成功に対し、当面はなす術が無かった。ジョン・ガンサーもこの時期の市政について、「ウィーンでは社会主義者が注目に値する統治を行っており、世界で最も成功した自治体にしたのではないか。(中略)ウィーンの社会主義者による功績は、戦後の欧州各国で最も活力に満ち溢れた社会主義運動であった」と述べている。
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